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自由であり続けること

何を書こうか考え続けていたらひと月が経っていた。
最近の私はというと、とりあえず生きている、という感覚である。
否、「頑張って」生きているのだろう。

一月の記憶があまりない。
父が亡くなって、あれよあれよと日々はすぎ、十一月からは年末休みを目指して何とか仕事を回した。ようやく休みに入った、と思ったらあっという間に正月は終わり、仕事に戻った。

去年の四月に突然言い渡された異動は全く望んでいたものではなかった。だが会社の財政事情に絡む話だったので、背に腹は変えられず受け入れた。

異動前からしていた「嫌な予感」は的中し、異動初日に新しい上司に「他の人が言っていた悪口」を「君のために」と告げられた時には、もう心のシャッターが降りていた。

そこから先は消化試合のごとく、極力火の粉を被らないように仕事をこなす日々だった。幸い、仕事は何とか回り、評価も悪くはなかった。が、私は想像以上に何かを「削られていた」ようだ。

十二月も中盤に差し掛かる頃、突然異動前のチームのリーダーから電話があった。

「一月からまたチームに戻すから。」

新しいチームのボスに心底嫌気がさしていた私はその申し出をありがたく受け入れ、一月は引き継ぎ期間ということになった。

戻れてホッとして、一月はこれまでより楽になるはず。…と思っていたのだけど、現実はそんなに甘くなかった。

私の体はそこから悲鳴を上げ始めた。おそらく、ずっと気持ちを無視してきたつけなのだろう。自律神経がうまく働かず、腹痛が再発。夜もよく寝られない日々が続いた。

さらに、上司が変わったことで決まっていた出張日程も変えざるを得ないことになり、泣きっ面に蜂とはこのこと。今も薬は手放せない。


ままならない暮らしの中で、改めて身に沁みるのは、自分がいかに不自由か、ということである。完全に自由な人間はいない。誰もが、居場所に、お金に、組織に、家族に、縛られている。

その中で、どの程度の不自由をよしとして、どの程度の自由を死守するのか。そのバランスが崩れた時に、人は辛くなるのだと思う。

例えば、今手元に10億あったら。
例えば、私にEU市民権があったら。
例えば、私が自分で起業していたら。
例えば、私が天涯孤独だったら。

極端な例だけど、もし私が上記のどれかに当てはまっていたら、とっくにこの会社にはいないだろう。そうではないから、すぐには動けない。それはもちろん不自由なことだ。

一方で、もし私が今10億持っていたら、家族のなかで軋轢が生まれるかもしれない。
EU市民権を持っていたら、そちらにもまた分かち難い「不自由」が生まれていることになるのだろう。(例えば、それが婚姻によるものであることを想定したらわかりやすい。)
起業していたら、毎月自動的に給料が振り込まれないことにヤキモキするのかもしれない。
孤独であればこそ、身の振り方を考える必要も出てくる。

完全に自由な人間などいない。
自由の裏には必ず不自由があって、どれを選ぶかでしかない。
では私は何を選ぶのか。何を譲れないのか。
そんなことをずっと考えている。


昨年の私は、ひとまず「家族との時間」と「金銭的余裕」を優先した。
その決断自体は、絶対に間違ってなかった。

だけど、愛犬も父も亡くなった後、長い通勤時間は確実に重荷になっている。ならばと、実は新しい犬を迎えた。この選択もまた、正しかった。体調不良の今も、犬がいてくれて良かったと思うことしかない。かといって子犬の世話を一人でできる自信もないので、今取る選択としてベストの決断だったと思う。

さて、次はどうする。
思い通りにならない体を抱えながら、今日も私は不自由を生きている。

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