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文章を書くということ

週に一本noteを書く、と決めてから9ヶ月が過ぎた。
その間に家を引っ越し、配置換えがあり、犬が倒れ、父が入院・退院した。
「週に一本」の自分との約束はたまに守られなくなってしまったけど、「週に一本」の約束は破られていない。

昔から「三日坊主」の気持ちがわからない。
一度始めたことをずっと続けることだけは得意なのだ。

ひとまず今年は週に一本を目標に書き続ける、それが自分との約束だ。


そもそもなぜ私がnoteを毎週書くことを自分に課しているかというと、自分の「内なる欲求」と大いに関係がある。

お金の不安がなくて、何でもできるとしたら、自分は何をしたいか?
…と思った時に出てきた答えが、「好きなところに引っ越したい」「小説を読みたい」「文章を書いて暮したい」だった時、当の自分が一番びっくりした。

あまりに突拍子がなくて、そしてあまりに「昔のまま」の願いだったからだ。考えてみると、私は現職でもドイツとの繋がりを捨てていないし、文章を書いて暮らしている。その意味では「近似値」をなぞってきたのだな、と思う。

ただ、それが書きたい文章なのかと問われると若干自信がない、というのが現状だ。

そんなことを友人に話していたら、「とりあえず、書きたいもの書いてみたら?」と言われて、noteを勧められた。

これが何になるかはわからない。
「書いて暮らす」ことが、思った以上に大変なことももちろん分かってる。それでも「書きたい」を優先してみよう、そのための努力を重ねてみよう、と思った結果が「週に一本noteを書く」という自分との約束だった。


noteを書いてみて分かったことがいくつかある。
まず、思った以上に文章は「その人を表す」ということ。記事を一本読めば、大体その人と仲良くなれそうかわかる。

ある記事だけが出色、ということは実は滅多にない。いいな、と思った人の記事は大抵が面白い。結局、文章を読んでその人の人となりを知ろうとしているのだな、と思う。

何なら、コメントの短い文章にもその人の価値観・哲学は滲んでいる。
そして多くの場合、面白い文章を書く人の周りには面白い文章を書く人が集っている。そう考えると、私の文章もきっと私の人となりを存分に表しているのだろう。

だがしかし、ここが面白いのだが、自分で自分の文章の特徴や価値観はあまりわからない。少なくとも現時点の私は「書きたいことを書いている」に過ぎないので、これが「どう見られているか」という意識が全くない。私の文章を読む人に、私はどのような人間として映っているのだろう。

2年目は、おそらくそこが鍵になるだろうな、と思っている。

もう一つは、「書きながら考える」というのは私にはできないかもしれない、ということ。生煮えの考えで書き始めて、書いているうちに考えがまとまるということはあまりない。結局文章も生煮えのまま終わる。

これは実は仕事の論文でもその傾向があって、それが故に私は筆が遅い。ひとしきり「考える」時間がないと書けないのだ。この「考える」時間を確保するのがなかなかどうして難しい。こちらもスケジュールを考え直す必要があるだろう。

そして最後は、「文章は閉じるのが一番難しい」ということだ。
少なくとも日常的にモノを書いている私にとって、長文を書くこと自体はそれほどハードルの高いことではない。何を書こうか、何と何を組み合わせるか、どんな構成で書こうか・・・と考えてからするすると書き始めるわけだが、いつも最後の一文で悩む。

あまりに「狙い過ぎている」一文はわざとらしくて好きではないし、かといって全くインパクトがなくても文章を閉じることはできない。論文の「終わり」は定型があるので、文章を閉じるのがこんなに難しいことは、実は初めて知った。

未消化にならないようにキリよく終わり、でもきちんと余韻を残す。
きっとそれが文章の「良い終わり方」だ。
そんな文章を書きたい。まだまだ修行の一年は続く。

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