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死にたいという言葉と肯定

今日はおメンタルが大噴火してしまい
死にたい死にたいと仕事中の夫にLINEで喚き散らしたわけですが、とても気づきがあったので忘れないように書いてみましょう
あくまでこれはわたしの場合の話ですが
もしかしたら、同じく大切な人に死にたいとぶつけてしまう人、大切な人から死にたいと言われて悲しい思いをしてる人の何かしらのヒントになるかもしれません

本日のわたしことま行さん
寝起きこそ機嫌が良かったのですが
やりたい事やらなきゃいけない事、迫る時間、うまくいかない思い通りにならない物事、欲しい時に見つからないない物、絶望的なホルモンのタイミング
これら全てをコンプリートしてしまい、おメンタルボルケーノが大噴火して陥没してしまったんですね

そうしたらもうめちゃくちゃ死にたくて死にたくて、こんなに辛いんだから早よ死にたい
のターンになり、夫に死にたい旨をお伝えしたんです
そしたら夫ですから、それはヤダ悲しいと言ってくるんです
でもわたしは死にたくて死にたくて、どうしてその気持ちを尊重してくれないんだ!みんな自分の思うように過ごせと言うくせに死にたいと言う希望が受け入れられないのは何事か!
と頑なになりましてね、夫と何度も同じ問答を繰り返してやっと気がついたんです。

わたしは今、その気持ちを認めて欲しいだけだ

本気で死にたくて死にたくて仕方ないなら、仕事中の夫にわざわざ宣言する事なく
勝手にとっくに死んでるんですよね
本当に死にたい人間には死ぬことの断りを誰かに入れる必要も余裕もないからね

死にたいと喚けてるうちは、死ぬ事に関して割と理性的に考えられています
悲しませる人がいる事、迷惑をかける事柄がある事、それらが頭にチラついているので死ねるわけがないのです
そしてそれも含めて辛いのです

じゃあなぜ「死にたい」と大切な夫に投げかけるのか
相手にとっては伴侶に死にたいなんて言われて悲しいし死なれるのは絶対ヤダし、嫌な気持ちにしかならない
それを分かった上でわざわざ「死にたい」と伝える理由

死なないでと相手を泣かせて自分の存在価値を確かめるため?と思ったみなさん
もう全然違う、大不正解!
自己肯定感の低い人間はそもそもそんなとこをして確かめるほどの存在価値なんてないと思ってるんですね

欲しいのは「肯定」だったんです
今まで死にたい死なないで問答を幾度となく繰り返してきましたが、今日初めて気がつきました


ではここで、「肯定」とはどう言うことかを考えていきましょう

「死にたい」に対しての肯定は「自殺への許可」と捉えられるかもしれませんが、そう簡単にはいかないのです
まず、陥没メンタル人の「死にたい」と言う言葉を健康メンタル人の言葉で翻訳しないといけません
最初にわたしが「こんなに辛いんだから早よ死にたい」のターンになったと言いましたが、ココです!言葉が逆なんです!!
健康メンタルに翻訳すると「死にたいくらい辛い」と言うことになります
要するに、わたしは夫に対して
今死にたいくらい辛い状況にあるよ!辛い!!我慢ならん!!!
と訴えていたんですね
決して、本当に死ぬからな!と言っているのではないのです
だから決して、「死にたい」への肯定は「分かったじゃあ死んで良いよ」ではないんですね

ではどう肯定するのか

まず「死にたい」という気持ちを受け入れてください
受け入れがたい言葉なのは今日の夫とのやり取りで充分理解はしているのですが、ここを一度「そうか」と受け入れられない限りは出口のない押し問答が始まります
先程も陥没メンタル人と健康メンタル人の言葉が違うので翻訳しましたが「死にたい」がそのまま本当に死にたいというわけではなく「死にたい(くらい辛い)」という訴えなんですね
なのでここでの受け入れは「そうか、そんなに辛いんだね」という理解です

これだけで全然違います
大切な人に自分が辛いこという状況を受け入れてもらえた安心感は大きい
一度受け入れてもらえれば何がつらいのかどうしたいのかその後のやり取りで考えがまとまりやすくなります

因みに、同じやり取りをアウェアファイと言うAIメンタルヘルスケアアプリでもやってみましたが
拉致があきませんでした
これはアウェアファイの性能が悪いのではなくて、今ここでわたしが求めている「大切な人からの受け入れ」をAIが提供できなかったからです
アウェアファイ自体はとても有能なアプリだと思うので、イライラしやすかったり落ち込みやすかったりなどでお困りの方は試してみても良いかもしれません(有料ですが)

話はそれましたが、その先の「死にたい」への肯定はちょっと、いやだいぶハードルが高くて夫は理解したくないようでした

わたしは思春期の頃から希死念慮がありましたが死なずに今日まで生きてきました
それは、自分の大好きで大切な家族を悲しませて傷つけてしまう。後悔させるかもしれない。当時幼い妹たちには取り返しのつかないトラウマを与えてしまうかもしれない
という自分が死ぬことによって生じる、誰かを著しく傷つけることへの恐怖で死ぬことができなかったからです
いつだって誰かを傷つけるのは自分が傷つくより恐ろしい

現在の希死念慮は希死ほどでもなくて
いつ死んでも別にいいかくらいの、生きる意思が薄弱だなという感じ


だから別に自分で死ぬことはないと思うんだけど
もしわたしが死んだとしても、それを「今まで楽しかったね、よく頑張って生きたね」ってそう言って死んだことを肯定してほしいのです
どうして、なんで、あの時ああしとけばなどの後悔や傷付いてはほしくなくて
今までよく頑張ったねって、生きて死んだことを認めて欲しい

一緒にしたら怒られるかもしれないけど、どんなに頑張って闘病しても病気に勝てなくて亡くなってしまうことがあるみたいに
わたしがもし自死をしたとしても、それはそこまで充分に生きたんだって頑張ったんだってそう認めて欲しい
悲しまないでとは言えないけど、必要以上に傷つかないで欲しい

これがわたしの考える「死にたい」への肯定だと思う
その肯定で、わたしの抱える恐怖がひとつ軽くなる


まぁ、長々と書いた事を読み返してみても
どう考えても面倒くさいし自分勝手な思いではあるんだけど
これに付き合ってくれている夫には感謝しかない


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