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劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン(ネタバレあり)から思うこと。

ヴァイオレットには、愛という言葉が良く似合う。
ギルベルトが還らぬ人となってからも、「愛している」という最後に残された言葉をずっと探し続けていた。
ドールとして生きながら、彼女はその「愛してる」をたくさんの人から、そして身の内に静かに宿った炎を自覚することで気付いていく。
たくさんの手紙を、届かぬ人へと書き続けてしまう。
作中、毎日、何をしていてもあなたのことに結びついてしまうのです。というようなことを彼女は手紙にしたためている。
それは大切な人がいる者なら、誰しもが経験があるのではないだろうか。
彼女は毎日忘れるどころか想いを深くしていく。
願っても届かぬ想いはどうすればいいのかと小さく呟いた彼女に、私は胸が締め付けられてしまった。
しかし、とある理由から還らぬ人であったはずのギルベルトが生きているという話へと物語は進んでいく。
勿論彼女は会いたいと、残された言葉「愛してる」を今なら分かるのだと伝えるために。
けれど会いにきた彼女をギルベルトは会えないと言って遠ざける。
彼女を戦争へと駆り立てたことを悔いているのだ。
彼女は遠ざけられたこと、自分がギルベルトを苦しめているのだとしてまたギルベルトから遠ざかる。
けれどそこで彼女がいままでと違うのは、きちんと、自分の成すべきドールとしての在り方を芯に持っていたことだ。
愛する人に囚われることなく、自分の意志でライデンへと帰ることを選択する。
その強さは彼女が今まで培ってきたものであり、ドールとして多くの人の心に触れてきた故のものなのだろう。
彼女はもうギルベルトがいなくても一人で歩いていけるだけの力を持っているのだ。
それでも、最後にギルベルトの元からさる彼女はギルベルトへ最後の手紙を残していく。
彼女が、彼女として生きてきた道を、ギルベルトへの感謝を伝えるために。
ラストは劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン を観ていただきたいのだが、これだけでも語ってみて分かったことがある。
内容はとてもシンプルなのだ。
毎回思うが、ヴァイオレット・エヴァーガーデン という作品は込み入った要素が無い。
手紙が人を繋ぐ。それを一途に描き続けているのだ。
しかし今回はそれに加えて、世の中の発展。
時代の移り変わりを色濃く作中で描いている。
識字率の悪かった世の中から、文字を書ける人々が増え、電波塔が建ち、電話が普及していく。
手紙の存在意義が問われる内容になっているのだ。
作中では、病床に伏せる男の子の手紙を書くという話があったが、男の子が危篤になりもう手紙を書けない状況になる。
そこで電話を使い想いを伝えるという展開を描く。
これは手紙が想いを伝えるというヴァイオレット・エヴァーガーデン の世界の中では禁忌の出来事かもしれない。
それでも、時代の流れには逆らうことができない。電話も良い面がある。
それを作中では伝えている。
ヴァイオレットたちドールの、手紙の存在意義が問われていた。
手紙でなくても、想いが伝えられる時代になってきているのだ。
私は映画を観ながら、え。それでいいの?と思った。
たしかに時代の流れ故に無くなっていく仕事もあるのだろう。
代筆屋がその最たるものだったというだけで。
けれどそんな私の、え。それでいいの?に応えてくれたのは、やはりラストの展開だったと思う。
思い出してほしい。
ヴァイオレットたちドールは代筆屋でもあるけれど、それは同時に言葉を紡ぐ人であり、何より人の想いを紡ぐ人たちのことをいうのだ。
そう考えた時に、もしかしたらヴァイオレット・エヴァーガーデン という作品は手紙という媒体に囚われることのない作品ではないかと思った。
きっとヴァイオレットも、CH郵便社のドールたちも、世の中が変わって代筆屋が必要になくなっても、言葉を紡ぐ、人の想いを紡ぐということはやめなかったのではないだろうか。どんな形であれ。
そして展開として綺麗だなと思ったのは、想いを伝えるには手紙で。でも早く届けたいなら電話で。会えるのなら、伝えられることは伝えるべきだ。けれど上手く伝えられないのなら、また手紙へ。という風に、人への想いの伝達手段が綺麗に手紙へとかえってきていたこと。
その綺麗なループに、今の時代も正にその只中にあるのだろうと感じた。
そして手紙の存在意義を私たちへと問いかけている。
ヴァイオレット・エヴァーガーデン という作品は、現代こうして情報伝達手段が無数にある世の中へ向けた言葉を紡ぐ、想いを紡ぐという大切さへ今一度目を向けてはどうだろうかと訴えてくるのだ。

「愛してる」を綴ったヴァイオレットのように。
私も、上手く伝えられない気持ちを手紙にしてみたくなった。

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