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生きるについて

人には生存本能が備えてある。自殺を試みた人からするとそれは邪魔なもの。僕は8階から飛び降りて足を骨折しました。何も考えずに降りたので、まさか木がクッションになるとはいやはや…。頭から落ちるのが怖すぎて、生存本能を本気で恨みました。それからも、自殺を考えたがそれっきり死ぬのが怖くて仕方が無いのです。人は生きていないとダメらしい。この生存本能に抗える人間はきっと「生と死」を解いたのだろう。僕は「生」も解けずにいる。生きる理由を探してしまう。果たして死ぬのが正解なのか、生きて家庭を作り、定番化された幸せを歩むのが正解なのか。生物通り、異性を好きになり子供を作るのが正解なのか?僕ら人間の正解はなんなのか。「生と死」はどう解いたら良いのか。解けぬ物ばかりで頭が疲弊してきたよ。この抽象的な題材、(主に恋愛や生きる事)は何故だか世間では答えが決まっている。「恋愛は幸せになれる」、「生きているだけでいい」、「死ぬのはいけないこと」、一体誰がこれを答えとしたのだろう。今死ぬことを考えている私や皆さんは、こんな答えのせいで苦しんでいる。だから僕は納得のいく答えを出せるようにこうやって精神を削りながら解いている訳です。

生きるはいい事、それはそうかもね。死ぬのはダメな事。それは何故だろう。生まれながら人間に備え付けられている「生存本能」、これは非常に強いものだ。僕らはどんなに死にたくて堪らなくても、眠くなるしお腹が空く。死にたくて堪らないのに身体が生きようとしていて苦しくて堪らない。まるで生き地獄だ。これを聞いてまだ生きるのはいい事と君は言えるか?言えないな。「死ぬ」と言えば君は止めるか?止めるよな。生きる事を諦めると、解は「死」のみになる。「生」は「死」で解決するのだ。これは私の話だが、日常的に感じる希死念慮の隣に、「楽しい」、「幸せ」が微かに残っているのだ。きっとこれは生存本能が僕を生かすために残した機能だ。もっと自由に自然に生きていけたら、僕はこの生存本能に嫌悪する事なく生を貪れたのだろうか。機械的な仕組みに僕はうんざりしている。

全部辞めたい、生きるのもやめたい。死ぬのも辞めたい。生きていたい。死にたい。ずっと混ざっている。いつか気付いたら最期を迎えるのだろうけど、それまでの道のりが不可解であり、苦しくて、世間を泳げなくて、社会に揉まれて人に揉まれて、それなのに生きていたいと思う日があるのは何故?それなのに思い返す事が苦しい事ばかりなのはなぜ?生きる為の方程式も、死ぬ為の方程式も、答えがあるのは死だけで、ずっと不可解なものは「生」なのだ。生きる喜びや、生きていたい気持ちだけは、生まれた時からずっと、人間皆んな同じなんだ。これは答えではない。答えがあるから見つからない。「生」はあまりにも機械的な答えを持ち合わせている。だからこそ答えを自分で定められない。

生きるや死ぬは、誰しもが考える事ではない。大体の人は、普通に食事をして、恋愛をして、外で遊んで、歳をとって、家族ができて、子供の成長に幸せを感じる。落ち込むことはあっても腕はまっさらで、飛び降りちゃおうとか、黄色い線の内側に立ったことはないのだろう。僕らは生きる。明日も生きる。苦しくても生きる。残念ながら生きてしまう。生きる事は、生まれた瞬間に強要されているのだ。生きるに答えはない。死ぬは答え。生きるに解法はない。死ぬに解法はある。

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