見出し画像

グリーフケアとの出会い

「そんなに暗い顔していたら、周りから誰もいなくなっちゃうよ。」
…当時ジョブコーチから浴びせられた
心ない一言でした。


父の死後すぐ後のことでした。

私は自分が悲しんでいることすら
気づかずにいたのです。

”あなたの態度が
まわりの迷惑になっていますよ。”
そう指摘されたことに、
ショックを隠しきれませんでした。

何よりも亡くなった父は、
”人に迷惑をかけてはいけない。”
そういう人だったからなおのことでした。

今ならわかるんです。
「悲しむことは、当然の感情。」

あんなに大切だった父を失って、
悲しまないほうがおかしい。

心にぽっかり穴が空くことを、遅かれ早かれ、
誰だって経験するのです。

このnoteは、死別に嘆きかなしみ、
苦しんでいる人の心を少しでも軽くしたい。

そんな気持ちで書き始めました。

書かれているのは私の物語ですが、
あなた自身も経験されたことが
あるかもしれない、そんな物語になっています。

あなたが、明日へ向けて一歩ふみ出す
勇気になりますよう、願いをこめて
書き上げました。

どうかあなたの一歩が、明日への、
そして1年後、10年後、
生きる限りの日々の光となりますように。

1.こんにちは、サラです。

このnoteを手にとってくださり、

どうもありがとうございます。

あなたは今、大切な人と笑っていますか?

それとも、大切な人とお別れしたばかりで、

どうしたらいいかわからなくなって

いるのでしょうか?

命は、いずれはなくなっていくものなんです。

この世の中のすべてのものは

必ず滅ぶのと一緒で、

命もいずれはこの大地からなくなって

消えていくのです。


私はそのことをわからずに、

それまで生きてきた…。

父がいなくなって、初めて思い知りました。


父がまさか死んでいなくなるとは、

想像もしていませんでした。

いつも大樹のように、

私を守ってくれていた人でした。

2.自己紹介しますね。

・2005年、職場をリストラされ、

 ストレスから鬱になり、そのまま

 統合失調症を発症。

・約15年間の闘病を経て、現在、劇的に回復中。

・スポーツ用品店勤務、12年。

・2020年にコーチング、

 カウンセリングと出会う。

・2021年、

 プロのコーチカウンセラーになる。

・同年、グリーフケアと出会う。


統合失調症を発症したのは、

5月のある日のことでした。

三日三晩食べず眠れずに、色々な

目には見えない存在から話しかけられ、

戦っていました。

統合失調症の「急性期」といわれる症状です。


家族、特に母が私のおかしさに気がつき、

父と母に無理やり県内の大きな

精神病院に連れて行かれました。


そこで担当医師に言われたこと。

「あなたの病気は一生治らないし、

あなたは一生働けません。」


たとえ医師であっても、

その人の人生を決めてしまっては

いけないはずです。

私は、その一言に言いしれぬ恐怖と

衝撃を抱えるようになりました。

自分の人生に尻込みするようになりました。


3.長い闘病生活のはじまり。

そこから、父との二人三脚が始まりました。

父はその頃はもう働きに出ていず、

家で農業をやっていました。

野菜づくりの上手な人でした。


退院後、私は薬の副作用で、

ガチガチになった体と格闘していました。


できなくなったこと。

・やわらかい線と、力つよい線とが

 引けなくなって大好きな絵をあきらめたこと。

・得意だった料理ができなくなったこと。

・脳に穴が空くので、集中力がなくなり、

 本が読めなくなったこと。

・きれい好きだったのに、部屋の片付けが、

 できなくなったこと。


…大好きなことがまったくできなくなった

ことは、苦痛極まりなかったです。

「やれないこと」を、父は「やらなくていい」と

言ってくれてましたが、

勝ち気の私には納得いきませんでした。


そして、一日一日が、気の遠くなるほど

長く感じました。

時間の感覚に疲れはじめると、私は父に

お願いして、遊びに連れていってもらいました。


広いホームセンターを半日かけて

歩かせてもらい、帰りには必ず

ソフトクリームを買ってもらってました。



本当にできないことが多く、

わずかなことしかできずに、

歯がゆくなる日々でした。

生まれたての赤ちゃんの気分でした。


4.見えた光、回復。

闘病から3年目くらいのことでした。

この頃になると、だいぶ体はマシに

なってきていて、将来への言い知れぬ不安が

大きかった時期でした。


電話帳を引いて、

障害者が働ける「作業所」を探しはじめました。

父に怒られたのを思い出します。

「なにもしなくていいんだぞ!」


でも私は、あきらめが悪かったのです。

ついに、ある精神病院の中にある、

喫茶店の形をした作業所で

働くことになりました。

病院だけでなくその作業所も、

父が送り迎えしてくれることになりました。



こうして、私は回復へのきざしを

見出したのです!


ですが私は、自分の身を立てることに夢中で、

父の変化にはちっとも気がつきませんでした。

「だるいな。」を、頻繁に言うようになった

父なのでした。


5.再びの試練。

ある年のこと、父が一年間で10キロやせたと

周囲にもらしました。

「病院に行ったほうがいい。」周りからいつも

言われるようになりました。

医者嫌いの人でした。


そしてしぶしぶ小さな内科を受信した時に、

「もっと大きな病院で受信してください。」

と言われました。

でも、その時は、もう、手遅れでした。


肺がんのステージ4。持って半年の命だと、

父はまっこうから言われてしまいました。


その時の父のショックを考えると、

なんとも言えない気持ちになります。

夜も眠れなかったんじゃないでしょうか。


寡黙でがまん強い人だったので、

周りの人間には分かりづらい一面もありました。


その頃の私は、作業所を卒業して、

障害者雇用制度をつかって

スポーツ用品店に勤めはじめていました。

父が入院した病院に、仕事帰りに

立ち寄るのが私の日課になりました。


仕事が終わるのが、午後4時半で、

そこから車で病院に向かい、午後7時まで

父と過ごしました。


病気で疲れやすかった私は、

仕事の疲れで、どうにかなりそうでも、

父の顔見たさに、毎日通いました。


最初のうちは、父は抗がん剤投与で、

入退院をくり返しました。

髪の毛は抜け落ちて、糖尿病もあってのことか、

色白だった肌の色が黒く変色していきました。


昔からある生命保険に加入したままだったので、

6日目の入院からでないと

お金が出ないとのことで、

3日くらいでいつも退院になる父は、

本当に嘆いていました。


でも、抗がん剤の苦しみについては

一言も言わない、ガマン強い人でした。


そんな入院生活が、徐々に増えて、

しだいに病院にいることの方が

当たり前になっていきました。


ある日の診察。先生が固まりました。

肺のがん細胞が、異様なはやさで

増殖していたのでした。


”余命三ヶ月”。

父ははっきり言われてしまいました。


肺いっぱいに広がったがん。

自然と死を待つことを選択して、

緩和ケア病棟に父は移りました。



抗がん剤を使用せず、

痛み止めだけを使うところで、

本当に、静かに死を待つだけの場所でした。

それは父自身の希望でした。


6.お別れのとき。

はっきり言って、この頃の日記はないし、

記憶もショックであいまいです。


が、私は休職願いを出して、

泊まり込みで父の看病をしたのは確かです。


風呂もシャワーもなく、

当然、がん患者さんのために鏡もない。

父のベッドと、簡易ベッドと、洗面所だけがある

白い殺風景な部屋でした。


本当に父への思いが、あふれ出そうでした。

一分一秒でも、ただそばにいたくて、

実家に帰って入浴することさえ、

三日おきで済ませていました。


私の心の支えだったのは、遠方の滋賀にいる

妹の存在でした。

私のたっての願いで、赤ちゃんを連れて、

帰省までしてくれました。

妹は、朝はやくのバスに乗り、

病棟に午後3時くらいまでいてくれました。


そして、一ヶ月ほど経ちました。

眠くて眠くて仕方ないある朝。

2011年8月30日。

父は、熱を出して眠ったまま、

帰らなくなりました。

64歳でした。


前日に大量の赤い水を、肺から

吸引されていたのでした。


モルヒネを投与されていたものの、最期まで

痛いの一言だって言わない人でした。


父は母の希望で、私たちが小さい頃に

父が袖を通した、夏の藍染めのゆかたを

着せられました。


そして、白い真わたの衣装と、

白いユリの花をたくさん入れてもらい、

永遠に旅立ちました。



くしくも、東日本大震災があり、

たくさんの人の命が奪われていき、

そしてその周りのたくさんの人達が、

そのことを受け入れるのに時間のがかっていく

という年でした。


7.新しい出発。

年は変わって、2021年のことです。

私は、コーチング、カウンセリングの

勉強を始めていました。

2011年から、2120 年まで、

コーチング、カウンセリングと出会うその日まで、

私は死んだように生きてきました。


車窓から見える景色のように、色々なものが

通りすぎて行ってしまいました。

結果、色々なチャンスをあきらめてきました。

…あきらめたことすら気づかない、

心のマヒした状態でした。

私がつかめなかったもの。

読書すること、絵を描くこと、

恋人と楽しく過ごすこと…。

病気と、死別の2つの苦しみから、

そんな事態になったのでした。


しかし、自ら開けた新しい扉で、

多くの仲間との出会いがありました。


2021年の一年間は、私にとっては、

統合失調症で失っていた自分、

そして長い人生の中で置きざりにしてきた、

本当の自分と出会うための

大切な年になりました。


そして、この年のプロコーチカウンセラーの

試験に一発合格できました!


8.グリーフケアとの出会い。

そして私は、もう一つの

大切な出会いをはたします。

それが、「グリーフケア」との出会いです。


グリーフケアとは、死別のかなしみに

嘆いている方にそっと寄りそう方法のこと。


これを聞いた時、私は、

「これこそ自分のやりたいことだ!」

と衝撃のようなひらめきを得ました。


ここで私は気づくのです。

そんなものが存在するなんて知らなかった。

知っていたら、もっと違った人生を歩んでいた。

長くあまりにも長く、かなしみ、

苦しみすぎてしまった…。


だからもしも同じような立場の人がいたら、

私にできることはないかな、

と考えたのが出発点でした。


これまでもコーチング、カウンセリングの

猛勉強はしてきましたが、それ以上に

熱が入ったのが、このグリーフケアでした。


たしかに、かなしみの大きさは人それぞれで、

どなたと、どんな別れ方をしたかによって、

死別の苦しみの形もさまざま、

人の数だけあります。

そして、とても繊細なことなんです。


それでも私はあきらめたくはなかった。

少しでもいいから、かなしんでいる人たちの

お力になりたいと強く決意したのです。


9.終わりに。

いかがでしたか?

これが私とグリーフケアとの出会いでした。


私は、私一人の力で、すべての人のかなしみを

癒せるとは思っていないのです。

人には、レジリエンスという、

治癒力が備わっていると信じています。

それを、引き出すお手伝いがしたい。


また、人生の伴侶をなくされた方や、

お子さんをなくされた方は、身をもぐような

壮絶な痛みを経験されているところです。


自死をされた方のご遺族様のお気持ちも、

とても深い深いものになります。


あくまでも私は、実父を失い、

心の病もあって、苦しみぬいた先に出た答えが、

あなたにグリーフケアを届けたい、

という気持ちでした。


もちろん、どんなお立場の方でも

全力で寄りそう決意でいます。


少しでもいいから前を向いてみたい、

そんなあなたのことを全力で支えます。

かけがえのないたった一人の存在のあなたです。

命にはあなたもご存じのとおり、

限りがあります。


残りのあなたの人生を少しでも輝かせられる

そのお手伝いができたらと、

強く願っています。


10.特別なお知らせ。

グリーフケアについてもっと知りたい、

学んでみたいという方も

中にはいらっしゃることでしょう。


今、公式ラインのメンバーさんを

募集しております。



ここに入ると、かなしみへの向き合い方や、

今、自分がどの段階のかなしみにいるのか、

どうしたら日々心穏やかに過ごせるのかを、

気づくことができるようになります。


そして、もしも同じようにかなしむ友達が

あらわれた時に、今度はあなた自身が

寄り添ってあげられるようになります。


あなたのかけがえのない人生を、

私は応援しています。

どうぞこちらをクリックしてください。

https://lin.ee/S4T1sWj









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?