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あえて動かない選択

黙想リトリートに参加した。牧師やそのパートナーらしき人が多分半数だった。多分というのはお互いにどの教会で自分が何者かというのは詮索しない、自分からは聞かないのがマナーのリトリートだから想像なんだけど、、

でも牧師のパートナーって所作や会話で直ぐに分かる。
自分と神様の事に集中するリトリートだから極力他の参加者の世話はしない。気を回したり過度な手伝いはそれで心や霊が忙しくなるので、自分の事は自分でするのがお約束みたいな感じ。
ところが、全員が集まる時に牧師のパートナーらしき参加者達は一斉に人数を指で数え始める。椅子が足りないとなるとサッと身体が動く。換気や室内温度調整までもこまめに気にして動く。悲しいかな身に染みている牧師のパートナーとしての所作なのだ。もちろんそういう方々の故にスムーズな数日間を過ごせたし、主催者もとても助かったと思う。

それで私はどうしていたかというと
全員いるか とか 椅子が足りるか
とか換気や室内温度調整大丈夫か
という場面であえて何もしない、動かない事にしていて、それは忍耐が必要な修練だった。だっていわゆる協力的でなく気も効かず自分だけの為に過ごしている参加者に見えるから。

本来それでいいのだけれど、実際は参加者の感情はあるわけで、なぜ座っているのか、、、?と思ったに違いない。なぜそう感じたかというと、ある参加者(高齢者)が私と同じように積極的には手伝いや気を効かせることをしなかったので、「あの人何もしないよね」と陰で不満を言うのを聞いたからだ。だから多分私についても
何故座ったままなのかと疑問に思う人はいたと思う。(実際最終日にチラッと言われた)

そういう感情や視線を向けられると分かっていながらそれでもあえて動かない方を選ぶのはかなり勇気が必要だった。
どちらが良くてどちらが悪いという事ではなく、自分はあえて動かない言わない方を選んだだけだけど。

クリスチャンは神様の愛によって優しくて親切で人の為に何かしたいと願う人が多いので素晴らしい。
でも時として相手や自分の愛ゆえに
あえて何もしない とか 言わない
事もとても大切だと思う。
主の為に、主と過ごす為に、主のみ声を聴く為に、主が愛される人がより良く過ごす為に、何もしない言わないという選択に罪悪感なしに出来る人間関係や雰囲気を作り出すものになれたらなぁと思う。

リトリートでほとんど非協力的に見えた自分の最大のお恵みは
帰宅後にそこで出会った人から
「私と霊的友情を作って欲しい」と連絡が来た事だった。

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