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決断が迫る中で

新型コロナウィルス感染者が再び増加している事から
再開したばかりの教会での礼拝をまた休止しました。

その決断をしたのは前日土曜の夕方でした。
教会の主要な方々に相談し、地区の責任者に相談し、ニュースで感染の動向を確認しメールや電話の対応に追われました。もう土曜の夕方なので素早い決断が求められました。
でも相談した数だけ考え、気持ちを聞く訳で、、

教会は埼玉県にあり、教会員の大半が埼玉県在住です。私達(牧師)が都心から通っていて県をまたいでの移動はなるべく自粛をと呼びかけられている中で
練馬ナンバーの車が教会に止まっていたら近所の人は不安に思うかもしれない。

気をつければ大丈夫
いややめた方がいい
教会に行きたい、、

夫と私は「休止」を決めていたものの
次々と意見が飛び交う中でそれを言う事にためらいました。

時間がない中ですが私は本当は少しでも静まって祈りたいなぁと思っていましたが出来ませんでした。
「休止」の連絡を皆さんにした後ホッとしましたが、静まり祈れなかった事をずっと思い巡らしていました。

状況や優先順位は決まっているので「休止」です。にもかかわらず神にその事を祈り神のみ旨を尋ねる必要があるのだろうか。次々と意見や気持ち、情報が飛び交う中で時間がない中であえて静まるとはどういう事だろうか、、

この事を霊的同伴者と話しました。
「それを振り返って聖書の中にある何かを感じますか?」
と聞かれた時にすぐに
「姦淫した女がイエスの所に連れて来られた」場面が思い浮かびました。

姦淫の罪を犯したのだから石打ちの罰は当然だ!状況や事実は決まってるから迷う必要はない、早く処罰すべき。
人々のら怒号や怒りが飛び交う中で
イエスは何をしていたかというと

しゃがんで指で地面に何かを書いていました。

人々はイエスももちろん石打ちの罰に同意する事を期待し、しかしそれを利用してイエスをおとしめようとしていました。早く「石打ちにしなさい」と言わないかと。
しゃがんで地面に何か書いてる場合ではないのに、、

でもこれがイエスの静まって神に祈る姿だったと思いました。決断が迫られる中その場にしゃがみ神に心を向け祈る、側からみたらイエスの姿は理解出来ないけれどそこにはイエスと神との聖なる空間、時間、交わり、静けさがありました。

事実、状況が決まっている中でイエスの答えは
「あなた方の中で罪のない人からこの女に石を投げなさい」でした。
全くの予想外の判断に人々は面食らいました。しかし自分の罪を一番知っている年長者からその場を立ち去って行った
と記してあります。

あの電話やメール、ニュースが流れる中で私がその場にしゃがんだらイエスもまた共にしゃがんでくださっただろうな
と思いました。
「休止」の決断は変わらないけれど
その決断を神にあって静かに勇気を持って受け止める事が出来たと思うのです。

これから何度同じ状況になるのでしょうか。何度決断を迫られるのでしょうか。
その最中にあっても
「しゃがんで」神に聞く事が出来るように神に祈ります。

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