エメット・ダルトン略伝:第二幕を生きた革命家
──ソンムの戦い、同志の死、映画スタジオ設立に至るアイルランド映画産業の立役者の生涯を伝記作家が辿る
ショーン・ボイン, 2014
1950年代後半のある日曜日、ダブリンに暮らす一少年だった私 [ショーン・ボイン] は魔法のような光景を見た。カスタムハウス近くの波止場で行われていた映画の撮影──『地獄で握手しろ』 [マイケル・アンダーソン/1959/米] のワンシーン、ハリウッドの伝説的俳優ジェームズ・キャグニー [1899-1986,アイルランド系アメリカ人] が波止場を走るのを、熱狂する見物人の群れに混じって私は夢中で眺めた。映画の中で使われる古い装甲ロールスロイスにも心を奪われた。
このような映画製作の興奮をアイルランドにもたらしたのは、ウィックロー州ブレイ近郊に“アードモア映画スタジオ”を設立したエメット・ダルトンという人物であることを新聞で知った。私はダルトンに惹かれてゆき、彼の伝記『Emmet Dalton: Somme Soldier, Irish General, Film Pioneer』(Merrion/Irish Academic Press, 2014)を書いた。
タイトルが示すように、ダルトンはアイルランド初の映画スタジオの創設者であるだけではなかった。彼はアメリカで生まれ、ダブリンのドラムコンドラで育ち、近所のオコンネル・スクールに通った。オコンネル・スクールは私の出身校でもあり、私の在学中の年配の教師のうち数人はダルトンをよく覚えていた。
ロイヤル・ダブリン・フュージリアーズ [独立以前のアイルランドに英国陸軍の一部として設けられた歩兵連隊] の青年将校としてソンムの戦いに参加したダルトンは、友人の詩人トム・ケトル [1880-1916, アイルランドの作家・政治家] の死を目の当たりにしつつ、勇敢さによって表彰された。
1919年、ドイツで除隊したダルトンはダブリンに戻り、アイルランド独立戦争 [1919-1921] でIRAの軍事訓練責任者となった。IRAリーダーのショーン・マクエオインをマウントジョイ刑務所から救出しようと大胆な計画を試み、失敗に終わった。
1921年にロンドンで行われた英愛条約 [英国自治領としての“アイルランド自由国”の成立を条件つきで定めるもの] の難しい交渉にあたっては、マイケル・コリンズ [1890-1922, アイルランド独立戦争の指導者] に助言し、ラヴェリー夫人 [1880–1935, グラスゴー派の画家ジョン・ラヴェリーの妻。コリンズとの愛人関係が噂された] やウィンストン・チャーチル [1874-1965, 当時の英国植民地相] にも会った。休戦中はIRAを代表して英国側とやりとりする連絡係のリーダーという極めて重要な役割を担った。その後、英軍のアイルランド撤退に伴う軍事基地の接収を監督した。
憧れのコリンズに常に付き添っていたダルトンは、内戦 [1922-1923, 英愛条約の条件を巡る条約賛成派=自由国派VS.反対派=共和国派の争い] では自由国側につき、自由国軍の創設者の一人となり、ダブリンのフォー・コートにあった共和国軍本部への砲撃を指揮した。優秀で勇敢な戦略家のダルトン少将は弱冠24歳でコーク州での重要な上陸作戦を指揮し、反条約派軍に対する戦況の転換に貢献した。
しかし、1922年8月22日、コーク西部べール・ナ・ブラフで待ち伏せされたコリンズが撃たれて死ぬ。同行していたダルトンは心に傷を負った。瀕死のコリンズをスリーブナモン [前述の装甲ロールスロイス。英愛条約の取引の一環でコリンズら自由国軍へと英国から譲渡され、アイルランド名スリーブナモンと呼ばれた] に立てかけ(私が1958年に波止場の映画撮影現場で見たのと同じ車種である)、コリンズの後頭部に開いた傷に野戦服を被せようと必死になった。
その後、共和国派による反政府活動の抑制を目的とした [自由国側の] 過酷な死刑制度導入を憂慮したダルトンは同年末に軍を去り、上院の書記に就任したが、1925年に辞職している。
大抵の人間ならばこの段階で、一生分の興奮と冒険を味わったと満足することだろう。しかし、ダルトンのキャリアには「第二幕」があった。彼は映画プロデューサーとして、またアイルランド映画界の創設者として歩むことになる。
その一方で彼は、さまざまな職業によって妻と家族を養った。保険を売り、体重計やスコッチウイスキーの営業もした。百科事典のセールスマンもした──客の一人は作家ティム・パット・クーガン [1935- ,マイケル・コリンズの伝記やアイルランド独立運動の史記など] の父親だった。1930年代の一時期など、フィリップ・マーロウのように離婚事件を扱っていたわけではないにしても、デイム・ストリートの事務所で私立探偵として働いてもいた。アルコールに溺れた時期もあった。友人ケトルやコリンズに目の前で死なれたトラウマからだという人もいる。しかし、やがて自制心を取り戻し、完全な断酒に成功した。
かつてサッカーチーム「ボヘミアンズ」に所属していたこともありスポーツに秀でたダルトンは、ハーミテージ・ゴルフクラブの会員となり、アイルランドを代表するアマチュア・ゴルファーとなった。パラマウントの重役デビッド・ローズ [1895-1992] はダブリンへの出張の際にはダルトンとのプレーを好み、1941年、戦時下のイギリスで同社の営業職に就くよう口説いた。[WW1後にハリウッドに押され斜陽となった英国映画産業救済のため1927年”英国内でのシェアの一定以上は製作・スタッフ・キャスト・原作などが英国産でなければならない”と定めた英国シネマトグラフ法の裏技として、ハリウッド大手の出資と英国の製作者らで英国産低予算早撮り映画「クォータ・クィッキーズ」が量産され、米国資本であるパラマウントは英国映画産業に深く関わっていた。]
そこでダルトンはリバプールの映画館でパラマウント映画のセールスに従事し、その後リーズでセールスマネージャーを務めた後、ロンドンに住を定めた。この時期、英軍コマンドー部隊にヘッドハンティングされたが断ったというエピソードがある。またセミプロの賭博師で、主要な競馬場の常連でもあり、一流の調教師ノエル・マーレスの厩舎の競走馬数頭のオーナー、または共同オーナーでもあった。
1947年にパラマウントを退社したダルトンは、[米独立系映画製作会社サミュエル・ゴールドウィン・プロダクションの運営によりWW2前後のハリウッドで活躍していた] 伝説的なハリウッドの大物サム・ゴールドウィン[1879-1974]のもとで、英国での映画配給に従事していた。ゴールドウィンはかねてよりマイケル・コリンズに極めて詳しく、[フランク・オコナー作のコリンズの伝記『Big Fellow』を一部参考にして] 映画『市街戦』[H・C・ポッター/1936/米] を製作しているほどである。コリンズの死に立ち会ったダルトンと会うことにも興味津々だったに違いない。
1950年代半ば、ダルトンは自ら映画やテレビの製作に乗り出した。まず他のビジネスパートナーと協力し、英国サリー州のネトルフォールド映画スタジオへの投資から始めた。協働者の中には、赤狩り [1940年代末-1950
年代初頭] の影響でロンドンに亡命した左翼系のアメリカ人がいた。たとえば、話題作『真昼の決闘』[フレッド・ジンネマン/1952/米] の脚本、カール・フォアマン [1914-1984] である。ダルトンは同じくアメリカ亡命組のハンナ・ウェインスタイン [1911-1984] と協力し、英国のTVシリーズ『The Adventures of Robin Hood』[テリー・ビショップ/1955-1959/ATV] を製作し、大成功を収めた。
アイルランドの映画産業を発展させたいと考えた彼は、[ユダヤ系移民のアイルランド人で劇場設立や全土の映画館買収などアイルランド娯楽産業のキーパーソンである] ルイス・エリマン [1903-1965] とともに、[1904年、独立運動と同時に高まった文芸復興運動の一環として、国内の作家によるアイルランドを描いた戯曲を国内の俳優によって上演することを目的にW.B.イェーツらによって設立され、自由国の助成で運営される] アビー劇場と契約を結び、アビーの演劇を基にした映画や、アビーの俳優を使った映画製作に成功した。
[米放送局ゼネラル・テレラジオ社を設立しTVでの映画放映に注力しつつ1954年にハワード・ヒューズから買収して] RKOのオーナーとなったアイルランド系アメリカ人の大物実業家、トム・オニール [1915-1998] から資金を調達し、ブレイ近郊の3万7千坪の敷地に建つジョージアン様式の邸宅アードモア・ハウスを購入。次いで[イースター蜂起・独立戦争に参加、内戦にダルトンとは別の反条約派陣営で参加し、終結後はエーモン・デ・ヴァレラ (1882-1975)の側近としてフィアナ・フォイル政権下で要職を歴任し経済拡張に向けて外国投資誘致政策の最初のプログラムを打ち出した] 革新派の首相ショーン・レマス [1999-1971, 首相在任1959-1966] による助成を受けて、アードモア・スタジオを開設した。
ダルトンの代表作のひとつは『もうひとつの楽園』である。アードモア・スタジオは、[アイルランド国産映画以外に][米スター俳優J.キャグニーを起用した]前述の『地獄で握手しろ』[や、続いて、米スター俳優ロバート・ミッチャムを起用し、IRAに参加したミッチャムと友人リチャード・ハリスらが悲惨な戦いに翻弄される『A Terrible Beauty』(テイ・ガーネット/1960/米・英] など、海外の映画人を惹きつけた。
やがて組合間紛争による労働争議が起こり、残念ながら1963年にアードモアは破産管財人の手に渡った。しかし他の経営者の下で存続し、長期的にはダルトンの先見の明が証明された。
エメット・ダルトン少将は、1978年3月4日、きっかり80歳の誕生日にダブリンで逝去した。軍隊の規律である。グラスネヴィン墓地のマイケル・コリンズの墓からほど近い場所に、軍人としての栄誉を讃えられて埋葬された。
(了)
エメット・ダルトン プロフィール
『もうひとつの楽園』作品情報
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上映終了報告──「どうしてこうなった」2020.7.28 この記事で「IRA出身の映画関係者を山本は今のところ『ホテル・ルワンダ』(2004/英・伊・南ア・米)のT.ジョージしか知らない」と書いたが、ダルトンもその1人である。