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【試訳】エメット・ダルトン略伝──アイルランド映画を興した元IRA将校と「もうひとつの楽園」

2023年6月2日~15日、角川シネマ有楽町「アイルランド映画祭2023」でアイルランドにまつわる映画9本が上映された。そのうちの1本に英国人監督ミュリエル・ボックスを起用した『もうひとつの楽園』(原題: This Other Eden)がある。アイルランド独立戦争を戦ったIRA司令官の死後の名声を巡って繰り広げられるドタバタ劇。公開は1959年、製作国はアイルランドである。

『もうひとつの楽園』は私にとって初めて知る作品だった。日本初公開・未ソフト化・未配信でもあり、この映画祭がなければおそらく見る機会もなかっただろう。冒頭数分、騙し討ちに遭って死ぬ司令官の闇夜の暗殺を描く緊迫感と、その後数十分続く長くゆるくところどころに棘があるのんびりしたコメディの落差が強く印象に残った。
また、アイルランド・ナショナリズムの皮肉な描かれ方が印象的だった。劇中の司令官が、若くして暗殺されたアイルランド独立運動のカリスマ的指導者マイケル・コリンズをモデルとしていることは瞭然である。しかしこの作品は彼の勇壮な死を描くよりも、司令官を聖人視し英雄化するアイルランド人たちと、司令官の側近だった元IRA将校が彼らを眺めつつ辟易した表情を浮かべるさまを滑稽に描くほうに数十倍のウェイトを置いている。このような皮肉を可能とする製作側の立場はどのようなものなのだろう。

そこで製作背景を調べると、この作品をノンクレジットで製作したプロデューサーのエメット・ダルトンは自身も元IRA将校で、かつてコリンズの側近として英愛条約の交渉にあたり、その暗殺にも居合わせたという経歴の持ち主だということがわかる。つまり劇中の件の側近の経歴は、製作者ダルトンと極めて似ているといえるだろう。

ダルトンはコリンズの死を経て内戦終結後、政治活動を離れて映画業界に転身している。英米の映画業界と協働しつつ、これまで主に他国映画のロケ地として使われてきたものの映画産業はほぼ存在せず、国産映画も少なかったアイルランドに映画産業を興す事業に携わり、国内初の撮影スタジオを設立して国産映画を製作した。それには英国や米国の映画業界との取引と、建国から約40年を経て経済拡張に力を入れるアイルランド政府の助成が必要だった。『もうひとつの楽園』はこのように作られた「アイルランド映画」の一つである。
『もうひとつの楽園』の作られた1959年は、アイルランドが英国領から正式に離脱し、革新的な政権のもとで輸出増加とヨーロッパ経済共同体参加への準備を進める年でもあった。ダルトンはかつて英国とアイルランドの複雑な関係においてコリンズとともに英愛条約賛成側につき、曲がりなりにもアイルランド自由国をスタートさせるのに一役買ったのと同じく、映画製作においても他国との複雑な関係を経てアイルランド映画産業の振興を試みたのだろうか。

アイルランドは英米をはじめとする他国によって多くの映画の題材となってきたわりに、長らく国産の映画が少なかった。「アイルランド映画」という呼称が「フランス映画」のように生産国を指すだけではなく、「アイルランドにまつわる映画」を指すのはこのためである。
「アイルランド(が生産した・にまつわる)映画」で繰り返し取り上げられるキャラクターに「IRA」がある。IRAと一口にいっても歴史上のさまざまな段階によってその性格はあるときは革命組織、あるときは国軍、また反乱軍、時代が下ってテロ組織と一枚岩ではない。しかし他の活動家組織に比べてIRAが圧倒的に映画製作者に好まれてきたのは事実であり、この現象については研究書があるほどだ。他国産の「アイルランド映画」ではIRAは悲壮に・悪辣に・または哀愁をもって登場することが多い。一方で、元IRAダルトンは自分の興した国産アイルランド映画で、自らをモデルにしたかのようなIRAを皮肉に滑稽に取り上げている。この複雑さはなんなのか。

アイルランド問題が複雑なようにアイルランド映画も複雑に思われる。たとえば英愛の対立を単純に二元化することはできない。そして英愛の対立に、「英国人の描くアイルランドVS.アイルランド人の描くアイルランド」を対立構造として当てはめ、前者をオリエンタリズムの・ステレオタイプのアイルランド=「劣った映画」とし、後者を当事者の・真のアイルランド=「優れた映画」と断じることはできないだろう。
アイルランド映画を取り巻く製作事情は「アイルランド映画」とはなにかを考える上で、そして他人の・自分の戦いを表出するときの作法を考える上でも知っておきたいことの一つだ。その足しに、ダルトンの伝記を書いたアイルランドの作家ショーン・ボインの短い記事を試訳した。

参考文献:
岩見寿子/宮地裕美子/前村敦『映画で語るアイルランド—幻想のケルトからリアルなアイルランドへ』(論創社, 2018)
Mark Connelly “The IRA on Films and Television” (MacFarland& Com., Inc., Publishers, 2012)

底本:Sean Boyne ”Emmet Dalton: a revolutionary with a second act
Biographer traces career of man who founded the Irish film industry from the Somme to Ardmore Studios via Beal na mBlath ”(アイリッシュ・タイムズ, 2014.11.27)
著者プロフィール: ショーン・ボイン(?-)アイルランド。ジャーナリスト・作家。2009年までサンデー・ワールド紙の政治特派員。

[ ]内の註・加筆は山本による。また可読性を考慮し改行を増やした。
各映画、映画関係者の詳細はIMDb、BFIのサイトに依拠した。


エメット・ダルトン略伝:第二幕を生きた革命家

──ソンムの戦い、同志の死、映画スタジオ設立に至るアイルランド映画産業の立役者の生涯を伝記作家が辿る
ショーン・ボイン, 2014

1950年代後半のある日曜日、ダブリンに暮らす一少年だった私 [ショーン・ボイン] は魔法のような光景を見た。カスタムハウス近くの波止場で行われていた映画の撮影──『地獄で握手しろ』 [マイケル・アンダーソン/1959/米] のワンシーン、ハリウッドの伝説的俳優ジェームズ・キャグニー [1899-1986,アイルランド系アメリカ人] が波止場を走るのを、熱狂する見物人の群れに混じって私は夢中で眺めた。映画の中で使われる古い装甲ロールスロイスにも心を奪われた。

『地獄で握手しろ』はアイルランド独立戦争を舞台に、友人を英軍に殺され復讐を志すアイルランド系アメリカ人学生が老獪なIRA(J.キャグニー)に惹かれ運動に関わるがその非情さに反発を抱く物語。アイルランドの作家リアーダン・コナー『Shake Hand with the Devil』(1936)が原作。

写真はダブリンの波止場を走るキャグニー(中央)と英軍の装甲車。英愛条約時に英軍からアイルランドに譲渡された13台のうち1台を実際に撮影で使用した

このような映画製作の興奮をアイルランドにもたらしたのは、ウィックロー州ブレイ近郊に“アードモア映画スタジオ”を設立したエメット・ダルトンという人物であることを新聞で知った。私はダルトンに惹かれてゆき、彼の伝記『Emmet Dalton: Somme Soldier, Irish General, Film Pioneer』(Merrion/Irish Academic Press, 2014)を書いた。 

タイトルが示すように、ダルトンはアイルランド初の映画スタジオの創設者であるだけではなかった。彼はアメリカで生まれ、ダブリンのドラムコンドラで育ち、近所のオコンネル・スクールに通った。オコンネル・スクールは私の出身校でもあり、私の在学中の年配の教師のうち数人はダルトンをよく覚えていた。

ロイヤル・ダブリン・フュージリアーズ [独立以前のアイルランドに英国陸軍の一部として設けられた歩兵連隊] の青年将校としてソンムの戦いに参加したダルトンは、友人の詩人トム・ケトル [1880-1916, アイルランドの作家・政治家] の死を目の当たりにしつつ、勇敢さによって表彰された。

1919年、ドイツで除隊したダルトンはダブリンに戻り、アイルランド独立戦争 [1919-1921] でIRAの軍事訓練責任者となった。IRAリーダーのショーン・マクエオインをマウントジョイ刑務所から救出しようと大胆な計画を試み、失敗に終わった。

1921年にロンドンで行われた英愛条約 [英国自治領としての“アイルランド自由国”の成立を条件つきで定めるもの] の難しい交渉にあたっては、マイケル・コリンズ  [1890-1922, アイルランド独立戦争の指導者] に助言し、ラヴェリー夫人  [1880–1935, グラスゴー派の画家ジョン・ラヴェリーの妻。コリンズとの愛人関係が噂された] やウィンストン・チャーチル [1874-1965, 当時の英国植民地相] にも会った。休戦中はIRAを代表して英国側とやりとりする連絡係のリーダーという極めて重要な役割を担った。その後、英軍のアイルランド撤退に伴う軍事基地の接収を監督した。

1921年英愛条約調印時のダルトン(左)とマイケル・コリンズ(右)。
ショーン・ボインのダルトン伝のレヴューより

憧れのコリンズに常に付き添っていたダルトンは、内戦 [1922-1923, 英愛条約の条件を巡る条約賛成派=自由国派VS.反対派=共和国派の争い] では自由国側につき、自由国軍の創設者の一人となり、ダブリンのフォー・コートにあった共和国軍本部への砲撃を指揮した。優秀で勇敢な戦略家のダルトン少将は弱冠24歳でコーク州での重要な上陸作戦を指揮し、反条約派軍に対する戦況の転換に貢献した。

しかし、1922年8月22日、コーク西部べール・ナ・ブラフで待ち伏せされたコリンズが撃たれて死ぬ。同行していたダルトンは心に傷を負った。瀕死のコリンズをスリーブナモン [前述の装甲ロールスロイス。英愛条約の取引の一環でコリンズら自由国軍へと英国から譲渡され、アイルランド名スリーブナモンと呼ばれた] に立てかけ(私が1958年に波止場の映画撮影現場で見たのと同じ車種である)、コリンズの後頭部に開いた傷に野戦服を被せようと必死になった。

その後、共和国派による反政府活動の抑制を目的とした [自由国側の] 過酷な死刑制度導入を憂慮したダルトンは同年末に軍を去り、上院の書記に就任したが、1925年に辞職している。

大抵の人間ならばこの段階で、一生分の興奮と冒険を味わったと満足することだろう。しかし、ダルトンのキャリアには「第二幕」があった。彼は映画プロデューサーとして、またアイルランド映画界の創設者として歩むことになる。

その一方で彼は、さまざまな職業によって妻と家族を養った。保険を売り、体重計やスコッチウイスキーの営業もした。百科事典のセールスマンもした──客の一人は作家ティム・パット・クーガン [1935- ,マイケル・コリンズの伝記やアイルランド独立運動の史記など] の父親だった。1930年代の一時期など、フィリップ・マーロウのように離婚事件を扱っていたわけではないにしても、デイム・ストリートの事務所で私立探偵として働いてもいた。アルコールに溺れた時期もあった。友人ケトルやコリンズに目の前で死なれたトラウマからだという人もいる。しかし、やがて自制心を取り戻し、完全な断酒に成功した。

かつてサッカーチーム「ボヘミアンズ」に所属していたこともありスポーツに秀でたダルトンは、ハーミテージ・ゴルフクラブの会員となり、アイルランドを代表するアマチュア・ゴルファーとなった。パラマウントの重役デビッド・ローズ [1895-1992] はダブリンへの出張の際にはダルトンとのプレーを好み、1941年、戦時下のイギリスで同社の営業職に就くよう口説いた。[WW1後にハリウッドに押され斜陽となった英国映画産業救済のため1927年”英国内でのシェアの一定以上は製作・スタッフ・キャスト・原作などが英国産でなければならない”と定めた英国シネマトグラフ法の裏技として、ハリウッド大手の出資と英国の製作者らで英国産低予算早撮り映画「クォータ・クィッキーズ」が量産され、米国資本であるパラマウントは英国映画産業に深く関わっていた。]

そこでダルトンはリバプールの映画館でパラマウント映画のセールスに従事し、その後リーズでセールスマネージャーを務めた後、ロンドンに住を定めた。この時期、英軍コマンドー部隊にヘッドハンティングされたが断ったというエピソードがある。またセミプロの賭博師で、主要な競馬場の常連でもあり、一流の調教師ノエル・マーレスの厩舎の競走馬数頭のオーナー、または共同オーナーでもあった。

1947年にパラマウントを退社したダルトンは、[米独立系映画製作会社サミュエル・ゴールドウィン・プロダクションの運営によりWW2前後のハリウッドで活躍していた] 伝説的なハリウッドの大物サム・ゴールドウィン[1879-1974]のもとで、英国での映画配給に従事していた。ゴールドウィンはかねてよりマイケル・コリンズに極めて詳しく、[フランク・オコナー作のコリンズの伝記『Big Fellow』を一部参考にして] 映画『市街戦』[H・C・ポッター/1936/米] を製作しているほどである。コリンズの死に立ち会ったダルトンと会うことにも興味津々だったに違いない。

1950年代半ば、ダルトンは自ら映画やテレビの製作に乗り出した。まず他のビジネスパートナーと協力し、英国サリー州のネトルフォールド映画スタジオへの投資から始めた。協働者の中には、赤狩り [1940年代末-1950
年代初頭] の影響でロンドンに亡命した左翼系のアメリカ人がいた。たとえば、話題作『真昼の決闘』[フレッド・ジンネマン/1952/米] の脚本、カール・フォアマン [1914-1984] である。ダルトンは同じくアメリカ亡命組のハンナ・ウェインスタイン [1911-1984] と協力し、英国のTVシリーズ『The Adventures of Robin Hood』[テリー・ビショップ/1955-1959/ATV] を製作し、大成功を収めた。

アイルランドの映画産業を発展させたいと考えた彼は、[ユダヤ系移民のアイルランド人で劇場設立や全土の映画館買収などアイルランド娯楽産業のキーパーソンである] ルイス・エリマン [1903-1965] とともに、[1904年、独立運動と同時に高まった文芸復興運動の一環として、国内の作家によるアイルランドを描いた戯曲を国内の俳優によって上演することを目的にW.B.イェーツらによって設立され、自由国の助成で運営される] アビー劇場と契約を結び、アビーの演劇を基にした映画や、アビーの俳優を使った映画製作に成功した。

[米放送局ゼネラル・テレラジオ社を設立しTVでの映画放映に注力しつつ1954年にハワード・ヒューズから買収して] RKOのオーナーとなったアイルランド系アメリカ人の大物実業家、トム・オニール [1915-1998] から資金を調達し、ブレイ近郊の3万7千坪の敷地に建つジョージアン様式の邸宅アードモア・ハウスを購入。次いで[イースター蜂起・独立戦争に参加、内戦にダルトンとは別の反条約派陣営で参加し、終結後はエーモン・デ・ヴァレラ (1882-1975)の側近としてフィアナ・フォイル政権下で要職を歴任し経済拡張に向けて外国投資誘致政策の最初のプログラムを打ち出した] 革新派の首相ショーン・レマス [1999-1971, 首相在任1959-1966] による助成を受けて、アードモア・スタジオを開設した。

アードモア・スタジオ。The Irish Film & Television Network より

ダルトンの代表作のひとつは『もうひとつの楽園』である。アードモア・スタジオは、[アイルランド国産映画以外に][米スター俳優J.キャグニーを起用した]前述の『地獄で握手しろ』[や、続いて、米スター俳優ロバート・ミッチャムを起用し、IRAに参加したミッチャムと友人リチャード・ハリスらが悲惨な戦いに翻弄される『A Terrible Beauty』(テイ・ガーネット/1960/米・英] など、海外の映画人を惹きつけた。

やがて組合間紛争による労働争議が起こり、残念ながら1963年にアードモアは破産管財人の手に渡った。しかし他の経営者の下で存続し、長期的にはダルトンの先見の明が証明された。

エメット・ダルトン少将は、1978年3月4日、きっかり80歳の誕生日にダブリンで逝去した。軍隊の規律である。グラスネヴィン墓地のマイケル・コリンズの墓からほど近い場所に、軍人としての栄誉を讃えられて埋葬された。
(了)

最晩年のダルトン(左)。RTEの映像アーカイブ“We Were Surprised, Annoyed And We Thought That It Was Madness”1978 より

エメット・ダルトン プロフィール

1898 アイルランド系の両親のもと、米国マサチューセッツに生まれる
1900 両親とともにアイルランドに戻る
1913 アイルランド義勇軍参加
1915 英国軍の一部隊の将校として従軍。翌年ソンムの戦いで叙勲
1919 帰国。独立戦争勃発。IRAに参加し訓練責任者となる
 マイケル・コリンズの側近として英愛条約締結にあたる  
1922 英愛条約締結、アイルランド自由国成立。北部6州の扱いを巡り反条約派との間に内戦勃発
 ダルトンは条約推進派・自由国側の将校として自由国軍創設。コリンズの暗殺に居合わせる
1923 内戦終結。ダルトンは自由国軍を辞任
1924 自由国上院の書記官に就任
1925 辞任
 セールスマン、探偵、アマチュアゴルファーなど転々
1941 パラマウント営業職として英国移住、数年後退社
 ハリウッドのサミュエル・ゴールドウィン・プロダクションの元で英国で映画配給に携わる
 ハリウッド赤狩りからの亡命者たちと協働し、英国ネトルフォールド映画スタジオに投資
1955 赤狩り亡命者と協働し英国で『ロビン・フッド』TVシリーズ製作
に関わりヒットさせる
 アイルランド映画産業発展を目し、実業家ルイス・エリマンとともにアビー劇場の演劇関係者を迎え、独自で映画製作開始。1957年〜1962年に9本の長編劇映画製作
 米RKOの新オーナー、トム・オニールから資金調達
1958 ショーン・レマス政権の援助を受け、アイルランド初の映画撮影所アードモア・スタジオ設立
1959 アードモア・スタジオでの初作品『Home is the Hero』(フィルダー・クック監督)製作、金熊賞ノミネート
 代表作『もうひとつの楽園』製作
1963 アードモア破産、経営者チェンジ
1978 死去

作成: 山本

『もうひとつの楽園』作品情報

『もうひとつの楽園』This Other Eden 1959/アイルランド/80min/白黒/
1.37: 1/製作Emmett Dalton Productions(愛), 配給Regal Films International(英)
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粗筋
2人の男が夜道を歩いている。英愛条約を巡る戦争の終結をはかって英国側との穏便な交渉に向かうIRA司令官とその側近である。しかし英国の警察隊ブラック・アンド・タンズによって間違って急襲され、蜂の巣になった司令官は側近に看取られて死ぬ。
舞台は20年後の長閑な田舎町に移る。タイトルが、アイルランドらしさを表すケルティックフォントで表示される(ヘッダー画像参照)。
町は、20年前に死んだ司令官を独立運動の英雄として記念する像の建立でおおわらわである。生き残った側近はこの騒ぎを横目で眺めつつ、死んだ司令官に自責と嫉妬と友情の複雑な感情を抱いている。IRAを離れた側近は地元の新聞社で働き、司令官が醜聞をはばかって秘していた婚外子を自分の子として育て上げた。ところが、自分の出自を知ってしまった息子はカトリックの慣習に反する実の父(兼、祖国の英雄)の素行にショックを受け、皆がなだめるのも聞かず建ったばかりの像を爆破する。件の像は控えめに言って大変前衛的な造形のうえ(像の登場シーンでは劇場で笑いが起きた)、台座の文字「建立された(ERECTED)」がやたら目立ち「勃起した(ERECTED)」とも読めるが、その間欠泉的な爆破は引き気味で撮られ、妙に迫力がない。ともあれ息子は爆破の腕を褒められ軍人になるよう勧められ、希望を見出す。
この粗筋にアイルランド好きの英国紳士や故郷を嫌うアイルランド娘、英国を憎みつつ利用する思い込みが激しく喧嘩っ早く噂好きでがめつい住民たちが次々登場し、強引なハッピーエンドで幕切れる。
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スタッフ/キャスト
■原作
・ルイス・ダルトン (1900–1951)
 アイルランド人。アビー劇場と縁が深い劇作家・演出家・小説家。 エメット・ダルトンと親族関係はない。作風はリアム・オフラハティの影響を受け、活動家/作家のパトリック・ピアースやテレンス・マックスウィニーの愛国的なトーンに対して批判的とされる。ナショナリズムやカトリック教会に批判的な作品を書き、自由国政府から発禁処分を受けたこともあるといわれる。ショーン・オケイシー、ピーダー・オドネル、ショーン・オフェイロンなどのアイルランド文学者と交流を持つ。
〈略年表〉
1900 演劇一家に生まれ、アイルランドと英国を巡業しつつ育つ
1916 ダブリンで公務員に就職しつつ、独立戦争時はIRA周縁の連絡係を務める
1921 アイルランド自由国の公務員に課せられた英国王室への忠誠の誓いを拒否して仕事を辞め、絵を学び漫画家となる。さまざまな旅劇団のためにメロドラマの戯曲を多く書く(ほとんどが散逸)
1936 イースター蜂起の経験を描いた『Death is So Fair』で小説家デビュー
 ダブリンのアビー劇場の座付の劇作家・演出家として活動
1938 アビー劇場のために戯曲『もうひとつの楽園』書く
1940 アビー劇場の地方巡業を企画し破綻
 親フランコ派アイリッシュ・ファシストのエオイン・オダフィを皮肉った戯曲を発表
 カトリック教会を皮肉った戯曲を発表、発禁に
1942 自分の劇団を設立し地方巡業
1944 英軍エンタメ部門ENSAで働くため渡英
1947 アビー劇場のために戯曲『They Got What They Wanted』を書く
1951 死去
 『They Got What They Wanted』、英国のアソシエイテッド・ブリティッシュ・ピクチャー・コーポレーションより『Talk of a Million』(ジョン・パディ・カースティア)として映画化。のちにTV映画化
1953 『もうひとつの楽園』アビー劇場で上演
1954 『もうひとつの楽園』出版
1959 『もうひとつの楽園』映画化

■脚本
・ブラナイド・アーヴァイン(1922-2010)
 アイルランドの女優・脚本家。ダルトンの製作映画9本のうち3本の脚本を担当。

・パトリック・カーワン(1899-1984)
 英国の映画やTVの脚本家。ダルトンの製作映画9本のうち3本の脚本を担当。

■監督
・ミュリエル・ボックス(1905-1991)
 英国人。終生英国の映画界で26本の脚本と15本の監督を手がけ、英国映画史上最も多作な女性監督といわれる。映画の作風は演劇の翻案が多く、社会問題を扱う脚本を好んだとされる。ジャーナリストのシドニー・ボックスと協働することが多く、初監督は英政府のプロパガンダ用ドキュメンタリー短編。のちの長編劇映画の監督作の傾向としては二流スターを起用し国内商業映画の主流を狙った早撮り低予算映画が多く、国内外の批評家にあまり相手にされなかったといわれる。同じく英国生まれの女性監督でのちに渡米したアイダ・ルピノ(1918-1995)と比較されることもある。2018年サンダンス映画祭で回顧特集が組まれ、フェミニズムの観点からも注目される。
〈略年表〉
1905 労働者階級の家庭に生まれ育つ。タイピストのかたわら演劇やバレエを学ぶ
1920〜1930年代初頭 英国映画のさまざまなプロダクションでキャリアを積む
--ストール・ピクチャーズ(1920年代に英国最大のサイレント映画製作・配給会社)のエキストラ出演
--ブリティッシュ・インストラクショナル・フィルムズ(サイレント後期からトーキー初期にかけてネイチャードキュメンタリーなどの短編を多く製作)の脚本担当
--ブリティッシュ・インターナショナル・ピクチャーズ(ヒッチコック作品を多く手掛けたり、IRA内部の裏切りを描いた『密告』(アルツール・ロビソン/1929, のちにジョン・フォード『男の敵』として1935年ハリウッドのRKOが映画化)を製作)で『第十七番』(アルフレッド・ヒッチコック/1932 )に関わる
1935 ジャーナリストのシドニー・ボックスと協働し、舞台俳優として活動
1939 短編映画の助監督を務める
1941 シドニーの設立した制作会社ヴェリティー・フィルムズ(設立当初は政府プロパガンダ用ドキュメンタリー短編専門の制作会社、次第に長編劇映画にシフト)から戦争プロパガンダのドキュメンタリー短篇『The English in』(1941/英)で監督デビュー
 脚本家としても活動。シドニーと共同執筆
1945 ジェームズ・メイソン主演の恋愛サスペンス長編『第七のベール』(コンプトン・ベネット/1945/英)でアカデミー脚本賞(シドニーと共作)
1951 シドニーがロンドン・インディペンデント・プロデューサーズ設立、ミュリエルの監督作も製作
 映画から小説にシフト
1965 英国初のフェミニズム出版社フェミナ設立
1970 英国大法官卿で貴族院議員・労働党のジェラルド・ガーディナー男爵と再婚
1971 自伝『Odd Woman Out』出版
1991 死去

■出演
・オードリー・ダルトン(1934-,存命)
 故郷を嫌うアイルランド娘役。エメット・ダルトンの実娘であり、当時既にハリウッドで7年のキャリアを積んでいた。

・ナイル・マクギネス(1913-1977)
 製作者とオーバーラップする元IRA役。『Ourselves Alone』(ブライアン・ハースト/1936/英) 『The Luck of the Irish 』(ドノヴァン・ペデルティ/1936/英)などの英国産低予算映画(クォータ・クィッキーズ)でアイルランド人役を多く演じる。前述ルイス・ダルトンの原作を元にした『Talk of a Million』
にも出演。本作のあとにダルトンらがアードモア・スタジオに誘致した『A Terrible Beauty』(テイ・ガーネット/1960/英・米) にも出演。医師の経歴も持つ。

・レスリー・フィリップス(1924-2022)
 アイルランドを愛する英国紳士役。英国人のステレオタイプとして生涯多数の映画に出演。アイルランド問題を扱った映画では、後に『ジャッカル』(マイケル・ケイトン=ジョーンズ/1997/米)に出演した。

・ハリー・ブローガン(1904-1977)
 英国嫌いの頑固な住民役。『The Gentle Gunman』(ベイジル・ディアデン,1952,英) 『地獄で握手しろ』(マイケル・アンダーソン/1959/米)『若き日のキャシディ』(ジャック・カーディフ/1960/英)など、アイルランド問題を扱った他国の映画でアイルランド人を演じた。ダルトンのフィルモグラフィ常連でもある。

作成: 山本
オードリー・ダルトンとレスリー・フィリップス。
MOMA This Other Eden. 1959. Directed by Muriel Box より
ナイル・マクギネス。IMDbより。すごくよかったので他の出演作も見たい


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