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わかりやすいお話

というのが今回のお話のネタ元、、、というかスタートです。

理系にありがちな「わかるように話さなきゃダメ」という思い

私自身、大学で生化学(やら生物物理化学)分野の事をしていて「できるだけ専門でない人にも理解できるように噛み砕いて説明できるようにする」が大事だと研究室でも教えられてきていました。で、今でもそれが基本的には正しいと思うのですが、、、「わかりやすく説明する」はどこまで必要なんだろうか、というお話というか議論というか、、、大学時代(大学院時代だったかも)に友人としたことがあるのです。

友人曰く

その友人も理学部な人(雪氷学の人)だったんですが、(確か)こんな話をしてくれました。

文系の研究発表とかでは難しい用語をわかりやすく表現しなおすという考え方はあまりなく、「その用語を理解できないなら、その研究を理解できない」「理解できないことを論ずることは出来ない」という考えがあるらしい。

正直、衝撃的でした。「できるだけわかりやすく他者に説明することが理学においては重要」「何故なら(社会全体に)理解されることが重要だから」というのが理学部での「わかりやすく説明」という考え方でした。

わかりやすくすることがわかりやすいとは限らないよね」というのはわかりきったお話でした、私や友人にとっては。だって「cAMPがセカンドメッセンジャーとして働く」ことを理解していないのに「cGMPの影響下でのCaイオンでの繊毛逆転現象に関係するタンパク質」のお話を本当に理解してもらえるわけが無いわけですよ(笑)。

「用語を知らない人に、それを理解してもらう」ことの難しさ、、、スゲー難しいなー、と思っていたところに「用語理解できないなら、理解してもらわないでも良い」と言わんばかりのお話。「あー、そうだよなー」と思っちゃったわけです(笑)。

「わかりやすく説明すること」と「理解してもらうこと」

当時、大学で卒業研究していた私や友人がしたかったのはおそらく「理解してもらうこと」でした。自分がやってる研究が面白いし、その「知的な楽しさ」や「新たにわかったこと」はワクワクするわけです。その細かいところまで「理解して欲しい」と思うわけです。「理解してほしい」ので「わかりやすく伝えたい」わけです。でも「わかりやすく説明する」と、どうしても「本来の知的な楽しさからずれる」ことや「わかったこと、ではなくその前段階の説明が長くなる」など、いくつかの面倒な状況が生まれるわけです。

で、悩んでいたわけです。「理解して欲しい」けど「わかりやすく説明することが良いとは思えない」ので。
当時、私の中では一つの解答として「そうは言っても理科離れとか言われてるし、誰が聞いてもある程度理解できるところまでわかりやすい説明にするべきだ」と思っていました(し、今でもそう思っています)。無理に全て簡単にする必要は無いけれど、入り口として「わかりにくい/わからない」にならない程度にわかりやすい説明にしていくことは必要で、、、。でもわかりやすくすることが絶対に必要なのかどうか、、、は常に考えていないと「わかりやすくないとわかってもらえない」になる(というか、なっている)と思っていました、、、15年くらい前に。

「わかりやすい説明が無いと勉強しない」生徒たち

今、教える立場になって、ネタ元で書かれていたような「自分で理解しようとしない」はよくあって、、、「自分から教科書を調べない」「授業で書いたノートを見ない」「説明で書いた紙を持って帰らない/その場で捨ててしまう」は当たり前のように毎日あります。たぶん「誰かが教えてくれる(説明してくれる)」のが当然の感覚なんだろうと思います。最悪「ググればなんとかなる」と思っていますし、事実ググればわかりますよね(笑)。でもググらないです、絶対に。「誰かが説明してくれる」のを待っていて、自分から動くことをしないです。

わかりやすくすることの弊害、ってのは多々生まれていて、、、。それは随分昔から言われていたような「自主性が足りない」とか「自立(自律)しない」といったことに似ているような気がしています。

たぶん、急に始まったことではないので回復するには10年の単位でかかるんだろうと思いますし、意識して行動するだけじゃなんともならないような気がします。

学校の授業やら教える/教えられるの関係性とか「主体的」とか「受容的」とかいう部分のお話になっていく、、、はず。日本全体とまでは言いませんが、この手のことが気になる人たちが「共通理解できる言葉」に置き換えていかないと、この流れは止まらないだろうなー、、、とか思いつつ。

オチなし。

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