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ローマ旅 DAY 2 -古道散策-

カラカラ、弟殺し、浴場、市民権

私たちが頭の中で古代ローマの街を再現するとき、重要な要素が欠けている。煙だ。ローマでは大規模な浴場の何本もの巨大ボイラーから煙が立ち昇るのが見える。何か月、何年、何世紀にもわたって来る日も来る日も絶え間なく木を燃やしつづける。

A・アンジュラ「古代ローマ人の24時間」

時差ぼけを逆手にとって、街が眠りから覚めぬ未明に出かけた。地中海気候のローマの冬は京都より暖かい。12月30日本日の最低気温は10℃を超える。良い散策日和だ。今日はアッピア道を歩く。
目的地に向かう街歩きこそ楽しいはずだ、という思いから、今回の旅はあまり電車を使わないことにしている。そのため、24時間券などではなく、回数券を使った。100分以内ならバスと電車を€1.5で何回でも乗れる仕組みである。ローマ地下鉄のエスカレーターは、手すりのほうが踏段よりほんの少し速く動いていた。

チルコ・マッシモ駅から地上に出た時分はまだ夜明けだった。スモークブルーの空色に包まれた街は、俳優のいない舞台セットのように感じた。最初の目的地であるカラカラ浴場はまだ開場していないため、逆方向にあるカラカラ帝ゆかりのアルジェンターリ記念門を見に行く。
この記念門は富裕な両替商たちからセウェルス帝に献上されたもので、供物を供える皇帝一族のレリーフが彫られている。ところが、セウェルス帝の後を継いだカラカラ帝は、弟ゲタを政敵と見なして殺害。記念門に彫られていた兄弟の片方は記憶抹消 (ダムナティオ・メモリアエ) によって削り取られてしまった。

弟殺しが建設した公衆浴場に向かう。ほどなくして右手にカラカラ浴場の巨大な外壁が現れる。ただでさえ高い壁は、煉瓦むき出しの荒々しさによって、さらに威圧感を投げかけてくる。お城でもなく、宮殿でもない、世俗的な公共施設がこれほどの威容を誇るのは、帝政期に入っても「民主」の遺風がなお残るローマだけである。浴場の床や壁を飾っていた精緻なモザイクは一部残り、中で展示されてある。幾何的模様のほか、ネプトゥヌス、ヒッポカムポスなど水に関連する題材が表現されている。開場一番に入ったため、敷地内には見学者が20人もいなかった。
カラカラ帝の名を不朽にしたのは、弟殺しと浴場建設だけではなかった。

カラカラ帝は、スコットランドからシリアまで、帝国内のすべての自由民にローマ市民権を与えると宣言した。いわゆるアントニヌス勅令である。三千万人以上の属州民が、一夜にして正式にローマ人となった。それは、史上最大級の市民権の一斉付与だった。

M・ビアード「ローマ帝国史」

ローマが興隆したのは、まさに市民権政策が重要な一因だった。征服した敗者、植民市、さらに解放奴隷にまで市民権を与え、異邦人をローマ人に変えてきた。これは、ギリシア・ポリスの排他的市民権からのコペルニクス的転回と言える。アントニヌス勅令は、そのプロセスの集大成だった。その話には続きがある。全帝国民がローマ法の適用対象であるローマ市民になったことで、法令の一律執行とスムーズなアップデートを工夫する必要性が生まれ、最終的に「ローマ法大全」がユスティニアヌス帝の命により編纂された。ヨーロッパ諸国の法の源である。

スキピオ、成功ということ

カラカラ浴場から道なりに沿ってさらに進む。速足の習慣もあって、体が気持ちよく温まってきた。流れていく景色と自分の足音に心を向けながら、前進している充足感を感じ取る。人間は歩くことだけで幸福を感じられるようにできているかもしれない。

左手にスキピオ一族の霊廟に出会う。私有地なのか、目立たないうえに中に入ることができない。一族で最も有名なのはアフリカヌス。第二次ポエニ戦争においてハンニバルを決定的に打ち破ったことで、アフリカの征服者と讃えられた。

特別な魔力がこの英雄に宿っていた。自分の偉大さを確信していたので、妬みを知らず、他人の功績は気軽に認め、他人の失策は思いやりをもって赦した。ギリシア教養とローマ的な民族感情が一致し、さわやかな弁舌と優雅な立ち振る舞いをそなえ、スキピオは、兵士の心、スペイン人の心、政敵の心、さらには宿敵ハンニバルの心をもつかんだ。

T・モムゼン「ローマの歴史」

戦略家としてはファビウス、戦術家としてはマルッケルスのほうがそれぞれスキピオより傑出しており、同戦争に貢献した。にもかかわらず名声を謳歌するのはスキピオのほうだった理由は、リスキーな作戦に成功し続けた幸運と、その作戦の華やかさがもたらす民衆からの人気だった。スキピオ・アフリカヌスはカトーの心をつかむことに失敗したようで、晩年、政治スキャンダルによってカトーに弾劾され、引退に追い込まれ、南イタリアで没した。
ポエニ戦争とスキピオ一族の活躍がローマにもたらしたのは領土と奴隷だけではなかった。征服戦争を渇望する帝国主義を誘起してしまった。帝国主義はやがて軍閥政治に発展して、共和制の崩壊を招く。

クラウディウス、街道、水道

サン・セバスティアーノ門を抜けると、里程標 (第1ローママイルストーン) がアッピア道に入ったことを告げる。古代ローマの里程標のレプリカは都内にたくさん復元されている。

ローマ道は、精密測量をおこなって、どこまでもまっすぐ建設されている。
深さ約120センチの幅広の溝を掘り、砂と粗石を底に敷いてしっかりした土台を作る。次に砂利と粘土の層を敷いて踏み固め、仕上げに板石を敷きつめる。しかも、雨水が両側に流れるように、中央を盛り上げてある。

P・マティザック「古代ローマ旅行ガイド」

いま歩いている道は、紀元前312年にアッピウス・クラウディウスによって敷かれたローマ最古の街道である。古代そのままの舗装が一部残っている。歩きにくいが、あえてここを歩く。ここを歩くと、昨日と明日の誰かとすれ違う気がする。
カタコンベには興味が湧かなかった。沿道にあるカタコンベはどれも観光客でにぎわっていた。複数の有名なカタコンベが近いところに集まっているようで、観光客は市内からバスに乗って見学に詰めかけてくる。
マクセンテイゥスのウィラをのんびり見て回ったあと、軽い昼食がてらに一休みしようと思い、十字路の隅にあるカフェに入る。陽気な男性店員が後庭に案内してくれて、チョコレート味のケーキとアメリカンコーヒーを注文した。昼の太陽は気前よく日光を降り注ぎ、少し暑い。ダウンベストを脱いでリュックに仕舞う。このカフェは旅行者だけでなく、古アッピア道を往来するサイクリストにも人気だ。

ちょうどその十字路で左折して北東方向に進んで、新アッピア道を横切る。そこから不安を誘うような荒地を黙々と歩く。小一時間も歩いて、やっと水道橋公園に着いた。長途の疲労と足の痛みが、遠い先まで果てしなく続く水道橋に対する畏敬に転化したような気がする。この公園にはないが、ローマ最古のアッピア水道は、最古の街道と同じくアッピウス・クラウディウスによって建設された。晩年、盲目になり、国事から退いたインフラの父は、ピュロスの使節に怯む元老院を叱咤激励したという。

その不屈な活力を、炎のように燃える言葉で若い世代の人々の心の中に吹き込んだ。王に対する返答は誇り高き言葉だった。それは、それ以降国家の原則となったものだが、「ローマはイタリアの地に外国の軍隊がとどまるかぎり交渉には応じない」、というものだった。

T・モムゼン「ローマの歴史」

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