見出し画像

私が影響を受けたもの7「責め絵師 伊藤晴雨2」

 前回の記事で、私が伊藤晴雨にのめり込んでいった過程を書いたが、今回は、伊藤晴雨のことを映像で見せてくれた日活ロマンポルノ作品のことを紹介したいと思う。
「発禁本「美人乱舞」より責める!」
1977年公開 監督/田中登 脚本/いどあきお
        出演/宮下順子 山谷初男 中島葵
 この「美人乱舞」と言うのは、晴雨の初期画集で昭和7、8年に製作、出版されたもの。特に髪フェチだった晴雨らしく「島田髷の壊れるまで」を丁寧に描いている。和綴本で美しい本である(東京飯田橋にある「風俗資料館」で閲覧できる)。

「美人乱舞」部分

 この作品のことを撮影当時助監督のペイペイだった中原俊監督に聞き、是非とも観たいと映画情報誌「ぴあ」を毎週くまなく見ていた。しかし1984、5年のこと。当時、SM作品はまだコアなファンしかおらず、集客にリスクを背負っていたので、なかなか再上映される機会が少なかった。
 それから数年後、ようやく見つけた。東京三河島にあるポルノ映画館。3本立てなのだが、他の作品は全く覚えていない。もしかすると「責める」だけを観て帰ったのかも知れない。
(なお、当時のポルノ映画館の環境は最悪であったが、私は自分の作品を観に、ポルノ映画館へ通っていたので気にしなかった。もちろん女性客など一人もいない)

 三河島駅から住宅街へ入った辺りに映画館がポツンとあった。まず目に飛び込んできたのはポスターだ。雪のような背景で着物で縛られ、乱れ髪の宮下順子。このポスターが美しい。私は早くも胸がドキドキした。「いい映画に違いない」と。

 初っ端から吊りシーン、そして氷風呂につけられる宮下順子。「タエ」と言う役で女給から晴雨の妻となった役である。
のちにわかることだが、タエは母親からの遺伝で「脳梅毒」に感染していたのだ。
両手首吊りで風呂桶の中に吊られながら浸される。これは辛いシーンだ。本物の氷水じゃないとしても、肉体的にかなり辛い吊りシーンである。顔面蒼白となって耐えるタエ。私は感嘆の声が漏れた。そして<憧れ>として心に刻み込まれた。

 そして初めの妻トキ。出産間近での逆さ吊りシーン。晴雨の語録の中からセリフを選んでいるが、言葉が生きている。晴雨役の山谷初男氏は若干膨よかだが、さすがベテラン役者である。晴雨が乗り移ったように言葉を吐く。

「縛っていじめたら、その美しい顔が、どんなに美しくなるかと思って」
「責め映えのする顔だ」
「これと見込んだ女は、もう逃しません、、、直感で女の感受性は識別できるもんですよ」

 そして雪責めシーン。初めの妻(工藤麻屋)、2番目の妻(中島葵)とのシーンを重ね、タエの番だ。
タエ「雪ね、、雪が降ったじゃないの。いい雪ね」
晴雨「ああ、いい雪だぜ」
タエ「きっとこんな日だったのね。前のカミさん雪責めにしたのは」
タエ「私も縛ってよ。前のカミさんだけがいい思いして」
晴雨「本気なのかい、、。始めたら途中で止めねぇぜ」

 話はズレるが、1980年代、ヌードモデルの仲間たちの間では「留守番電話機能付き」電話が流行っていた。当時はヌードモデル事務所など数件しかなかったため、ほとんどのモデルたちは個人で動いていた。そのため仕事依頼には電話が欠かせないが、自宅にいることなど稀である。そこで留守電が必須となるのだが、当時はカセットテープ式で、自分でメッセージを吹き込むタイプが主流である。ごく単純に「はい、⚪︎⚪︎です。ただいま留守にしております。ご用件を、、、」と吹き込む子がほとんどであるが、私は何を思ったか、冒頭をセリフ仕立てにしていた。そのセリフは本や歌詞の中から抜粋していたが、このタエと晴雨のセリフも入れたのだ。こんなことを言われたい、と心底思ったのだろう。

 さて映画に戻ると、雪深い中の歩行。腰あたりまでありそうなロケ地である。まっさらの雪の中を突き進むシーンもある。中原監督(当時は助監督)が話していた「救急車の連続であった」というのも納得できる。いやぁ、よくぞこんな撮影しましたねぇ。真のマゾでも雪中は辛い。それを女優さんにさせるとは、、、。当時の女優さんの根性、「役のためなら、、」と思う心意気が凄い。また、それが出来るキャスティングである。一般映画ならセットで作るだろうが、これは監督の決断であろう。ギリギリを責める田中登監督である。「晴雨ものなら本当の表情が欲しい」と思ったのであろうか。

 でも正直言うと、おそらくセット撮影の方が凄みが出たと思う。雪のロケは白飛びし、画面が妙に明るい。見た目がいわゆる「壮絶さ」ではない。私は雪責めの身体の辛さを知っているので、このシーンにこれだけの想いがあるが、何も知らなければ妙に明るいシーンに「大した事ないな」と思ってしまうかも知れない。実際私も、画面的には「ん?あまり苦労なさそうかな」と一瞬思ってしまった。
 しかし女優さんは裸足である。雪を被せられ雪だらけである。

 この晴雨のSMもの、いや、責めものは、いわゆる団鬼六氏のSMものとは一味違う。これは肉体的な責めだけではなく、常に心の葛藤も伴っているのだ。「女の嫉妬、意地」の部分であろう。独りの男に対しての前妻との比較、私の方が優っているはず、という優越感。「責め」と言う特殊な分野だけにそれが競い合える唯一の手段である。つまり主人公は男である。
 それに対して、鬼六ものは「女がいかに多数の男性に弄ばれるか、女の心が堕ちていくか」であり、主人公は女である。
 もちろん良い、悪い、ではなく、作品の方向性の違いである。鬼六作品で好きな作品も多数あるが、私の中で「責めもの」の作品ではこの映画が心の奥底まで染み込んでしまった。

 タエは脳梅毒が進行し、もう何もかもがわからない。責めても責めてもニコニコ耐えている。
「しんどい話よ、お前も俺も、、、、。何てことよ!、、、底がねぇ、、、どうにもならねぇ代物だ。まるで、底なし沼だァ、、、何とか言ってくれ!、、、タエ!、、え?タエ、、、、」

 心が辛くなる。でも真のマゾとしてはこうなる事も幸せかもしれない。
蝋燭責め、髪吊り、、、。晴雨も責めの手を止められない。
 そしてついに髪の毛が抜け落ちる。
晴雨の一番好きだった髪の毛が。
宮下順子にタエが乗り移ったように、呆けている表情でも哀しさと艶やかさが存分に感じられる。だからこそこの作品が心に染み入るのだ。

 タエの死。火葬後は憑きものが落ちたように穏やかな晴雨。滑車には髪の毛の束がぶら下がっている。

ここで映画は終焉となる。
観ている私もつきものが落ちたように「はぁー、、、」と肩を落とす。

ちなみに前回紹介した団鬼六作「伊藤晴雨物語」は、脳梅で狂った妻を責めに責め立て、筆を走らせているところで終わっている。
映画ではどこかで「平穏」が欲しかった、脚本家いどあきお氏であろう。

 ここで団鬼六氏の小説の話をすると、氏は自身のこの小説を最後まで否定していた。「失敗作だ」と。鬼六氏が言わんとしていることはわからないではない。つまりこの晴雨物語は事実を元に創作した小説であり、娯楽作品ではない。「花と蛇」が大ヒットしたように、晴雨をもっとサディストに描きたかったのだろう。
 しかし私は、一般小説を書きたかった鬼六氏の想いが込められている、と感じる。つまり、アブノーマル作品の中に浸るのではなく、より文学的である、と。私はこの「伊藤晴雨物語」がもっと世の中に出ればよかった、と感じている。鬼六氏は「花と蛇」だけではない。もっと才能がある作家だったのだ、と。

 話がそれてしまった。
田中登監督が描いた「晴雨」の世界観、最初で最後であった。
あと、晴雨の事を映画化できるのは、鈴木清順監督くらいかな、と私は密かな期待をしていたのだが、願い叶わなかった。歌舞伎的な美学を表現できるのは清順監督であろう(「夢二」でちょっとセリフに出てきたけどね)。

 本当に晴雨の世界観をありがとうございます。スタッフ、キャスト共にベストメンバーであったと思う。いま見ても心に響くセリフと情感だ。ロマンポルノ作品の中で、ぜひ観てもらいたい作品の1作である。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?