私が影響を受けたもの6 「責め絵師 伊藤晴雨 1」
奇妙な運命の絵師 伊藤晴雨の事を知ったのは、二十歳のにっかつデビューの後だった。監督らと呑んでいる時、緊縛といえばこういう人物がいる、と晴雨の話を聞いた。そして伊藤晴雨を題材にしたにっかつ作品「責める!」の撮影秘話等も聞いた(中原俊監督は<責める!>の助監督であった)。
今と違い、過去作品の映画を見ることはなかなか出来ない状況。「責める!」の映画は頭に入れておいて、とにかく晴雨の本を探した。しかし1984年ですら、まだ「緊縛」「サド&マゾ」は一般的ではなく、なかなか見つからない。周りの知人などに話し、過去の記事を少しずつ集め出した。
そうしているうちに作家団鬼六の「伊藤睛雨物語」(河出書房新社)が文庫で発売された(1987年)。私はその小説を必死で読み込んだ。
伊藤晴雨。明治に東京で生まれ、幼少の頃から絵がうまかった。小学生になると絵師について勉強した。下町っ子にあるように、歌舞伎芝居を親たちに連れられて観ていると、「責め場」に性的刺激を強く感じたという10歳にもならない頃。しかしそれが人生を左右するとは思いもよらなかったであろう。
伊藤晴雨の自伝的な書き方で小説は進んでいくが、ここで私は歌舞伎について初めて知った。歌舞伎の演目、その妖艶さ、面白さ。そしてもう一つ、着物の妖しさでるある。
歌舞伎の演目の中に責め場が含まれているものがある。もちろんそれはお芝居で男性俳優が女方なのだが、その崩れて、乱れていく姿に心を奪われる晴雨。その様が丁寧に書かれている。着物の乱れ、裾や襟の乱れ、結髪の乱れ。
そして風景。松の木に縛られたり、雪の中で責められたり、、、。
私は妄想に浸り、自身を置き換えていた。「いいな。そんな姿、憧れるな」と。だから周囲の関係者に「雪責め」、「雪の中で緊縛されたい」と話していたのである(それがにっかつキネコ作品「折檻」への出演と繋がっていく)。
実は私、それまで着物は大嫌いであった。七五三で着せられた着物が辛く、泣き喚いていた。その記憶が強く、二度と着物なんかきるもんか、と思っていた。ところがこの物語を読むうちに、着物の素晴らしさが分かったのである。
それからストリップ劇場で「オサダゼミナール」に参加し、緊縛ショーというものに向かい合う。衣装は襦袢1枚だったので、「着崩れていく」ということがよくわからなかった。なので、襦袢の上に着物を着るような時も作ったのである。
それから程なくして東京飯田橋にある「風俗資料館」と好意にして頂き、そこに晴雨に関しての資料や原画があると知った。私は足繁く通い、資料をあさり、原画をじっくり眺めた。
線は細い。しかし結い髪の乱れの細やかさ、着物の乱れ方、「ここが描きたかったんだな」と即座に伝わる程、細部に関して徹底している。まさしく「崩れの美学」である。私はこれをやりたい。表現してみたい。と強く思った。そして歌舞伎の演目に対しても、興味を持ち、調べるようになった。
明らかに折檻があるシーンがある「明烏」(あけがらす)や「金閣寺」等以外でも、精神的マゾ要素の濃い作品が多いことに驚いた。
私はだいぶ遅くに気づいたが、伊藤晴雨は子供頃に観た芝居に、その要素を見出していたのである。今で言う先天的フェチスト、「髪の毛」と「縄」に対してのフェチストであったのだ。
しかし晴雨の青春期、明治後期から大正時代(1910年代)、縛って女を折檻する、と言うことが性癖である、などと口が裂けても言えなかった。なので職業モデルやカフェ女給を口説き、ひそかに秘密の行為をしていたのである。それも肉体関係よりも「モデル」として責め立てていた。晴雨自身はデッサンに勤しんでいたのである。
そしてこの頃晴雨を支えていたのは、いわゆる「好事家」たちであった。新聞小説の挿画を描いたり、看板絵を描いたりして生活していたが、晴雨の好きなように描かせ、大金を払っていたのはやはりその道の仲間であった。晴雨は「世の中にこういう趣味の人が他にもいたのか」とびっくりしながらも、心置きなく描ける責め絵を次々と描き上げていくのであった。
結果、晴雨の責め絵は沢山残された。そして戦後日本初のSM雑誌「奇譚クラブ」にも執筆し、その心中を随筆や小説として書き残した。
1990年代、伊藤晴雨のことが突如話題に上がり出した。1994年芸術新潮4月号で「幻の責め絵師 伊藤晴雨」が発売された。それを機に写真集や、晴雨の仕事についての本が幾冊も発売された。
バブル期に海外ボンテージ、ラバーやピンヒール、マスクといったフェティッシュなものが日本にどんどん入り、一時期はおしゃれなフェティッシュものが流行り、緊縛文化など過去の遺産、と言うような風潮となり出していた頃であった。
それを見直すかのような芸術新潮の企画であった。緊縛派、縄フェチにとっては嬉しいことであった。
伊豆下田に「了仙寺」と言う寺がある。ここは敷地内に性の「宝物館」を設立していて、晴雨の絹本原画も展示されている。興味本位の性ではなく、五穀豊穣として性的文化、お祭り、信仰が深く関わっているのが仏教だから、と言う意味らしい。晴雨の作品は江戸地獄図譜。その絵葉書はお土産物の一つとなっている。
そして晴雨に関しての話は、雑誌「奇譚クラブ」で編集者でもあり、挿画家として「喜多玲子」と言うペンネームを持つ、須磨利之氏にも聞いた。青雨唯一の弟子である。
「先生のマスかきの手伝いもしましたよ。先生は日本髪を解いた女の髪の中へ顔を埋め、恍惚となり「おい、かいてくれ」と言う。だから手でやってあげました。亡くなる間際、僕の手をぎゅっと握って、『いいか、サド、マゾをやめるんじゃないぞ。雑誌編集も今は苦しくても続けていけ。サド、マゾの夜明けは近いぞ』っていってくれてねぇ。僕は黙って頷いていたよ。死ぬ時までその事で頭がいっぱいだったんだねぇ」
伊藤晴雨、1961年 81歳で大往生を遂げた。
サド、マゾの夜明けは確実にあった。私はその恩恵に預かった。
次回は、日活ロマンポルノ映画「責める!」について書いていきたいと思う。
最後に信頼する愛好者から譲り受けた、晴雨の初期出版の一つ
「十二ヶ月行事奇態刑罰圖譜」の一部を紹介する。昭和28年(1928年)出版。和綴本の横開き。薄紙に月々の刑罰の真意が説明され、薄紙をめくると、責め絵が印刷されている。印刷自体は悪い。これは当時の日本の印刷技術が未熟なので致し方ない。しかし、責め絵の完成度は高い。さすが芝居好きの晴雨である。これは私の宝物で大切にとっている。
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