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創作「重なる光」

はたじい、がここ一週間姿を見せない。
はたじいというのは私たち生徒が勝手につけたあだなで、はたじいは高校の前の横断歩道に毎朝立っている。緑のジャージを着た腰の曲がったおじいさん。私たちに毎朝、声をかける。いってらっしゃいとか、今日は寒いなとか。
「小学校の時に旗もって横断歩道にいてくれたおじいさん、いたよね」
そんな記憶を私たちはなんとなく思い出していたのだろう。旗はもっていないけれど、旗をもっていそうなおじいさん。そんな理由で、はたじいは命名され、まことしやかに校内に伝わっていった。

はたじいは、はたじいと呼ばれていることに気づいているようだった。それを受け入れているのか、単に耳が遠いのかわからないけれど、「はたじい、おはよう」とか言うとそれに答えてくれる。
はたじいに対して、挨拶をする生徒と無視をする生徒がいて、私はその前者だった。おじいちゃんっ子だったから、お年寄りが悲しい顔をしているのを見るのが耐えられない。無視をしている人もどうしたらいいかわからないだけだと思うけど、はたじいのおはようが受け止められず宙に放り投げられた瞬間を見るのが切なくて、私はそのおはようをもかき集めて、おはようとして、はたじいに返す。

はたじい、どうしたんだろう。具合悪くしちゃったのかな。ここ最近、暑い日と肌寒い日が乱高下していたから、気候にやられちゃったかもしれない。重病で入院とかになっていなければいいんだけど。ここまで毎日顔を合わせていると、今みたいに朝のホームルームとかで様子を言ってほしくもなる。それくらい、毎日顔を合わせていた人の存在。本当の名前は知らないけれど。

「はい、じゃあ今日も一日よろしく」
担任の山本先生がホームルームを締める。山本先生が教室の去り際に間違えて電気のスイッチを押した。
ふっとみんなが上を見る。電気が消えた。
ああ、すまんすまんと先生はスイッチを入れる。


その流れを見ていて、あぁ、はたじいはまるで昼の教室みたいだ、と私は思った。
太陽光が窓から差し込んでいて、教室にいる人の顔も問題なく見えるし、黒板に書かれている文字も、教科書の図もしっかりと見える。過ごすのに十分な明るさがあるように思うから、そこに電灯がなくてもいい気がしてしまう。いらないというか、なんのためにつけてるのという感覚だ。でも、ひとたび消してしまうとみんなびっくりする。今ある世界の明るさは、いろんな光の重なり合いで、その一つが消失するとその差に戸惑うものなのだ。でも、その光がなくなったからといって困るかというとそうでもない。必要とあれば代価品を求める。そして、慣れていく。
自分の周りの景色が変わって、構成しているものがたとえなくなったとしても、きっとそれを受け入れて慣れていくんだと思う。

はたじいだって、別に何かを担っていたわけではない。もう私たちは高校生だ。横断歩道も危なげなく渡れる。学校の前に立っていなくても何も困らない。
だけども、と思う。
「今度、また会ったら聞いてみよう。はたじいの名前」
そう思った。

<三題噺の練習/30分>
1つ目は『昼の教室』
2つ目は『電灯』
3つ目は『求める』

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