2010年02月06日(土)
気配で目を覚ます。娘の足が私の太腿にどかんと乗っている。私は彼女の足を持ち上げてそっとどかし、彼女の体に布団を掛け直す。大丈夫だろうか、熱は下がっているだろうか。気になるが、まだ彼女を起こすわけにはいかない。私は黙って起き上がる。
ゴロがまた砂浴び場で丸くなっている。おはようゴロ。私は声を掛ける。彼女はそれでもじっと、ただじっと砂の上丸くなっている。
テーブルの上、八重咲のチューリップから花粉がたくさん落ちている。それぞれの水を替えてやりながら、私は花を眺める。ぼんぼりのように咲いているオールドローズ。ぱっくりと開いて咲くガーベラ。それぞれがそれぞれの姿。色も違えば匂いも違う、立ち姿も違う。当たり前のことなのだけれども、その生命の不思議に、私はどうしようもなく惹かれてしまう。
窓を開けると、音がしそうなほど冷え込んだ空気。凛々と。私はぶるりと体を震わす。どうりで部屋の中も冷え込んでいるわけだ。私は納得する。でもこんな日の空が私は特に好きだ。張り詰めた細い細い糸によって織り出される空の色が、たまらなく好き。私はただじっと空を見つめる。地平辺りに漂う僅かな雲が、左へ左へと流れてゆく。微風が私の前髪を撫でてゆく。今朝点っている灯りは三つ。週末だからだろうか。小さなその灯りは線で結ぶとちょうど二等辺三角形を描くようで。ここから見ると地上の星座のようにさえ見える。
お湯を沸かし、今朝は中国茶を濃い目に入れる。大き目のカップにたっぷりと。私はそれを持って椅子に座り、とりあえず朝の仕事にとりかかる。娘はまだ寝息を立てている。
共依存からの回復。授業は淡々と進む。私にとっては身近な内容で、何の違和感もなく心にすとんと落ちてくる。自分自身の体験や、近しい友人たちの経験、それらが頭の中、くるくる回る。
対等な関係というものがどれほど貴重なものであるか、それを、こうした勉強を為せば為すほど感じる。そういう関係を今、自分が手元に持てていること、そのことに感謝せずにはいられなくなる。そこにいたるまでの道程がどれほどのものであったのか、そのこともまた、振り返る。
この勉強を為すということは、自らを省みるということに他ならないのだろう。自らを見つめ、受け容れ、その繰り返しなのだろう。
帰ろうとしたところに電話が鳴る。小学校からだ。どうしたのだろう。何かあったのか。慌てて電話に出ると、娘が今熱を出しおなかが痛いと言って保健室にいるという。私は驚く。何があった、一体どうした。バスに飛び乗り、私は学校へ向かう。
保健室に走っていく。私の顔を見たとたん娘が泣き出す。どうしたどうした、私が問いかけると、保健の先生が、保健室にいるのがたまらなく嫌みたいで、と苦笑する。おなかが痛くて泣いてるんじゃないの? ううん、もう痛いのはとれた。じゃ、どうした? するとまたべそをかく。涙がぽろぽろと頬を伝う。
家に帰り、熱をはかるとまだ八度ある。とりあえず布団に潜り込ませ、休ませることにする。食欲も全くないらしい。私はとにかく様子を見ることにする。
しばらくして、娘が突如言い出す。ママ、ごめんね。え、なにが? 学校行ってるときに熱出してごめんね。何言ってんの、ママこそすぐ飛んでこなくてごめんね。ううん、いいの…。そしてまた、娘は泣く。
彼女の好物を作ってみたものの、彼女は大根のお味噌汁にだけ箸をつけ、それ以上は食べられないと言う。私はそれをそのまま食卓から下げる。食卓に向き合って座っているときも、彼女はべそをかき、私の手を握ったままだった。
保健室で寝るって特別なことなんだよ。全然よくない、私、嫌だった。教室にいたかったの? うん、お友達とみんなで一緒にいたかった。そっかぁ、ママはよく具合悪くなって保健室で寝てたんだ。そうなの? うん。そうだった。あなたの年頃はまだ、ママはすぐ具合が悪くなって、でも保健室に行くのが嫌で机にしがみついて泣いて、でも先生におんぶされて保健室に連れて行かれて。そうなんだー。うん、そうだったよ。で、ママしょっちゅう早退してた。そうなんだ。そっかぁ。うん、そうだよ。
担任にも、副校長先生にも、聞かれたよ。何を? あのね、お友達と嫌なことあったからおなか痛くなったの、とか、お母さんと喧嘩したの、とか。あら、そうなの? おなか痛いから痛いっていうだけなのに、しつこく聞いてくるんだよ。そっかぁ。私は苦笑する。さすがいまどきの小学校だなぁと思う。娘が続けて言う。友達と嫌なことあったら、そこで嫌だっていうよ。そっかぁ、でもそれができなくておなか痛くなっちゃう子もいるんだよ。へぇ。うん、いるんだよ。でも私、違うよ。そっかぁ。
まだ熱にうかされた顔をしている娘に、布団に戻るように言う。娘はすごすごと布団に潜り込む。ねぇママ、テレビ見てもいい? 何見るの? ドリフのDVD。あ…。いい? はい、いいよ。私はまた苦笑する。それを見る気力は残っているのか、なら、とりあえず深刻な症状ではないらしい。明日の朝まで様子を見よう。
それにしても。彼女が熱を出すなりおなかが痛いというのはどのくらいぶりのことだろう。正直記憶がない。保育園の時熱を出したなり風邪をひいたなりのことはあったと思うのだが。そのくらい彼女は、元気な子だった。でも。
彼女の泣き顔をこうして見ていると、毎日毎日どれほど張り詰めて過ごしていたのかを、改めて思い知らされる。どれほど私に気を使い、私に気を配って彼女は過ごしてきたのだろう。私はそんな彼女の上に胡坐をかいて見過ごしていたのかもしれない。参った。どうしてこんなことにもっと早く気づかなかったんだろう。
ママ、ごめんね。そう言った彼女の声が、言葉が、どうしようもなく私の心の中ぐるぐる回っている。当分、忘れられそうに、ない。
起きてきた娘に、体温計を渡す。平熱。見事に平熱。どう? だるくない? うん、昨日首が痛かったけど、それだけ。そっか。おなかは? 空いてる。おにぎりあるよ。焼きおにぎりにして。わかった、お醤油、それとも味噌? お醤油。
小さめのおにぎり二つ分、醤油を塗って焼いてみる。軽く焦げ目がついた頃には、部屋中お醤油の匂い。ミルクやココアまで起きてきた。
そして今朝もまた、昨日の続きのドリフのDVD。娘の年代で、ドリフのこんなDVDを見ている子は他にいるのだろうか。私は首を傾げる。そして娘は、昨日の表情とは打って変わって、けらけらと明るい声で笑っている。
そろそろ出よう。バス、28分にあるよ。それなら走らないと。私たちは玄関を飛び出し、階段を駆け下りる。ちょうどバスが信号の向こうから走ってくるところで。
娘が突然、私に尋ねてくる。ねぇママ、もし私が熱が今日もあったら、ママどうしてた? え? どうしてた? うーん、とりあえず病院連れてく。仕事は? 仕事はキャンセルだなぁ。そうしたらうちもっと貧乏になるよね? まぁそうだけど、それはそれでしょう? 死ぬわけじゃぁない。まぁそうだけどさぁ。元気になってよかったよ。うん、もうおなかも痛くないしね。
話しているうちにバスは駅に到着する。私たちは降りて改札口へ向かう。そして娘は右へ、私は左へ。ママ、メールちょうだいね。分かった、ママにもメールちょうだいね。うん。それじゃぁね、じゃぁね! 手を振って別れる私たち。しばしの別れ。
彼女の姿が消えるまで、私は柱の陰で見送る。私の携帯電話にすぐ、メールが届く。じゃぁね、行ってきます。それだけ書いてある。だから私は返事を返す。しっかり休んでしっかり食べてしっかり寝るんだよ。何かあったらいつでも連絡して。ママも連絡するからね。しばらくしてただ一言、返事が返ってくる。うん!
電車は土曜日のためかいつもより空いており。私は窓際に立って外を眺める。ちょうどイヤホンからは電車という歌が流れ出し。
忘れないでおこうと思う。覚えておこうと思う。彼女の昨日の涙を。べそをかいたあの表情を。彼女があんな表情を常に背中に隠して笑っていることを。しかと覚えておこうと思う。
乗り換え駅は次。ゆっくりとホームに滑り込んだ電車が止まる。私は背筋を伸ばし、次のホームへと駆け出す。
よかったらサポートお願いいたします。いただいたサポートは、写真家および言葉紡ぎ屋としての活動費あるいは私の一息つくための珈琲代として使わせていただきます・・・!