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2010年03月31日(水)

びっしょりと寝汗をかいている。ちょっと動くと冷気が忍び込んで、瞬く間に体が冷えてゆく。それは、こんなに寝汗をかくのはどのくらいぶりだろう、というくらい、酷かった。自分ではそこまで疲れているつもりはなかったのだが。体が声を上げている、そんな感じだ。隣では娘がぐーすか寝息を立てて眠っている。昨夜、久しぶりに一緒に寝ると言い出した娘は、私の体に足を絡み付けて寝入った。今彼女は大の字になって眠っている。天下泰平といったところか。いや、どうなんだろう、格好はそう見えるけれども、もうそれなりの年齢だ、彼女の心の中には私には思いもよらない何かが渦巻いているのかもしれない。私にも計り知れない、彼女の秘密。でも、そうやって子供は秘密を育てながら、大きくなっていくような気がする。
ぶるぶる震える体を何とか布団から出して、すぐに着替える。とにかく何でもいいから着替えた方がいいだろう、そんな具合で。目に映ったシャツを手にとって、とりあえずそれに着替える。もう全身鳥肌。汗をかくのはいやじゃないけれど、この後始末に冬は特に困る。
窓を開けてベランダに出る。昨日より少し曇っているだろうか。でも空は明るい。今日も雨の心配はないだろう。帰ってきたら洗濯をしようと頭にメモする。足元でイフェイオンが咲いている。ぱっと開いたその花びらは、風に揺れるとしゃんしゃんという鈴の音が聴こえてきそうな気配。そして見つめていると、彼女らの元気がこちらにも伝染してきそうな、そんな勢い。
ミミエデンの新芽にまた粉の噴いたものを見つける。私は摘む。この追いかけっこ。いつまで続くか分からないが、諦めてなるものか、と思う。本当なら今頃、きっと葉が茂っていたはずなんだろう、それなのに、私が摘むから彼女はいまだにほとんど裸ん坊。寒々としたその姿が、かわいそうでならない。もうちょっと、もうちょっと、と、私は樹を励ます。きっと治るから、頑張ろうね、と励ます。
部屋に戻り、顔を洗う。あれほどびっしょりと寝汗をかいたおかげとでもいうんだろうか、鏡の中の顔はさっぱりとした様相で。私は目を閉じる。そして体の内奥を辿ってみる。胃のあたりの穴ぼこは、なんだか今日はちょっと歪んでいるようで。眠っているようないないような、それよりも、その穴の歪みが。私は手を伸ばそうとして、引っ込める。なんだか触ってはいけないような気がする。だから私は声を掛けてみる。どうしたの、痛いの? 痛いわけではないらしい。私にはしこりが感じられるが、確かに痛みはない。じゃぁ何だろう。居心地が悪いのね? 返事はないが、そんな気がする。どうして居心地が悪いのだろう。きっとそれは、私が彼女と親しくなろうとしているからだ。そんな気がする。彼女は親しい間柄というものをきっと知らないでここまで来たんだ。だから、人に近寄られるのが怖くて仕方がないんだ。そう思えた。だから私は、黙ってそこに居ることにする。長いことひとりで居たから、ちゃんとした距離をもって誰かとつきあうことなんて、きっと彼女にはなかったことだから、彼女が姿を歪ませるという仕草で拒絶反応を見せるのは、至極当たり前のことのように感じる。そういえば私は昔、ハリネズミのようだった気がする。すべてのものが敵のように見えて、すべてのものに対して針を立てて、突進していくしか、術を知らなかった、そんな気がする。今その姿を思い描くと、ちょっと笑える。だってそんなことをしたって、相手も自分も傷つくだけなのだから。今はそれが分かっている。だから、ただここに、じっとして居る。彼女を見つめながら。
しばらくして、歪みがびよんびよんと動くのを確かめて、私は一旦離れることにする。また来るね、と挨拶して、彼女にほんの一瞬だけ触れて、手を振る。また明日来るね。そう挨拶して。
そうして私はまたさらに体の中を探索する。昨日の「サミシイ」におはようを言う。「サミシイ」は、小さなアメーバのような姿を現し始め。どくんどくんと脈打っているのだった。どうしてそんなにサミシイの? 私は尋ねてみる。彼女は泣いているようで。ずっと泣いているようで。どんどんひとりになっていくような気がしてサミシイの、と、小さな声が返ってくる。そうなのね、あなたは自分がどんどんひとりになっていく気がしてサミシイのね、私は返事をする。それが我侭で自分勝手なことは分かっているのだけれど、それでもサミシイの。辛いの。「サミシイ」がそう言ってさめざめと泣く。私はだから、ただそこに居ることにする。あなたは自分が置いてきぼりにされていくような気がして、だからたまらない思いがして泣いてしまうのね、と、小さい声で応える。すると「サミシイ」はわっとさらに声を上げて泣く。私だけなんでこんなにひとりぼっちなのかしら、どうしてこんなにひとりぼっちなのかしら、どうして、どうして。「サミシイ」がそう言ってただひたすら泣いている。だから私はそれに寄り添って、ただそこに居る。
どのくらい時間が経ったろう、泣きつかれたのか、小さく丸くなって、それでもどくんどくんと脈打ちながら小さく丸くなってゆく「サミシイ」。だから私は、立ち上がって、また来るね、と挨拶する。すると彼女は切なそうな、またあなたも私を取り残すのね、というような目を私に向ける。だから私は言ってみる。私はまた必ずここに来るから。だから大丈夫なのよ、と。それでも信じてはいないのだろう。いや、あなたはそう言いながら私を置き去りにしていくんだわ、という目をしている。私はにっこり笑って、手を振る。
目を開けてもしばらく、「サミシイ」の残像が私の中に残っている。「サミシイ」の言いたいことが、これでもかというほど分かる気がした。あなたもやっぱりそうなのね、と、彼女が言う気持ちが、嫌というほど分かる気がした。私の中にそういうものが在るのは、当然な気がした。ずっと私の中に在ったんだろうと思う。まさに、置き去りにされていたんだろうと思う、私によって。そのことを思うと、何ともいえない気持ちがした。私はそうやってそれを置き去りにすることによって、何とか生きてくることができた。でも置き去りにされた側はどうだったんだろう。それを思うと、たまらない気がした。
お湯を沸かし、お茶を入れる。今朝はレモングラスのハーブティーにしてみる。ゴロもココアも起きてきて、こちらを見上げている。おはようゴロ、おはようココア。私は声を掛ける。娘が帰ってきたのがきっと嬉しいのだと思う。だから、早く相手してよ、と出てきてるんだろう。娘が起きるまであと少し待っていてね、と、私は声を掛ける。

彼女と川で撮影するのは、これが初めてだ。晴れ渡った空の下、私たちは川に向かう。しかし、川の大半が岸の工事中で。ここもだめ、あそこもだめ、ということで、私たちはひたすら川を上り続ける。すると、川の水が少ないせいで、底が干上がっている場所に出くわす。あぁ、もうここで撮ろう、ということに決める。
私が何故機会があれば彼女を撮ろうと思うのかといえば、彼女は写真に対して、いや、カメラに対して媚びないからだ。それはきっと、彼女のカメラに対する様々な思いが関係しているんだと思う。
彼女の育ってきた家庭、それから彼女が受けてきた様々な傷。それらは、彼女をカメラや写真から遠ざけていった。だから彼女には写真があまり残っていないということを聴いたことがある。実際私も、彼女から、彼女の入った写真を見せられたことが、ほとんどない。
三年前だったか四年前だったか、正直正確な時間は忘れたが、そのくらい前に、私は「あの場所から」の撮影を始めた。その初回に、彼女はまず参加してくれたのだった。どういう心の変化があってそうなったのか、私は詳しくは聴いていない。が、彼女はわざわざ遠い西の町から、参加してくれたのだった。
その時彼女は、あぁ大丈夫だ、この人のカメラの前でなら自由に動ける、と思ったのだという。そしてまた、あぁ私は写真に写ってももう大丈夫なのだ、とも思えたのだという。
以来、「あの場所から」の撮影には必ず彼女は参加してくれる。また、折々に上京しては、私の写真のモデルになってくれる。
カメラに対して媚びない、と最初に言った。彼女は、私がカメラを向けても、彼女の世界を崩そうとはしない。彼女の世界をそこにちゃんと見せてくれる。同時に、自分が自分が、という主張もない。だから私は、彼女という人を通して、世界をそこに見ることができる。だから私はそこで、シャッターを切ることができる。
川はちょうど、季節の変わり目で。枯れて種を飛ばそうとしているものもあれば、その傍らで今から花開こうとしているものもあったり。まさに季節の、繋ぎ目なのだということが、ありありと感じられた。
私たちはヘドロに足を取られながら、それでも何とか川の中央まで辿り着いた。走ったりしゃがみこんだり、もう好きなように動き回った。
私たちの上、空は澄み渡り。燦々と降り注ぐ陽光は、これでもかというほど眩しくて。冷たい風が渡ってゆくのを、私たちは肌で感じていた。冷たい風とあたたかい陽光と、そのどちらをも。

帰り道、電車がいきなり止まる。止まるべき場所じゃないところで電車が止まる。私たちは一瞬にしてそれがどういう意味なのかを察する。私にも彼女にも、そうやって電車に飛び込んで目の前で逝った友人が在た。そういうのを何度も見てきた。だから私たちは、自分の肌が粟立つのを感じる。
でも私たちが何よりショックだったのは。ホームにいる何人かがそれを見ても笑って過ごしていることだった。何なんだろう、この反応は。その脇を、シートをかけられた担架が運ばれてゆく。そのカバーの下から青い手がでろりと出ていた。救急車はもう来ない。消防と警察だけが、あちこちを闊歩している。
ようやく電車のドアが開けられ、私たちは這うようにして出る。でも何だろう、私より明らかに具合の悪い彼女の前で、私はショックを受けてはならない、というようなものが私の中で働いていた。しっかりしなければ、というような。私のモノは後でいい、今は私が、冷静に事態に対処しなければいけないんだな、というような。
結局私たちはそこから、タクシーに乗って家に帰る。他に何も術はなかった。強張る体を必死で支えようとしている彼女の隣で、私はただ黙々と、自分が為すべきことについて考えていた。呑みこまれてはいけない、と、ただそれだけを、考えて、いた。

帰宅した娘と友人が遊んでいる部屋。嬌声が飛び交う。私はそれを、ちょっと離れたところから眺めている。そういえば私はいつも、こうやってちょっと離れたところから眺めているなぁということを、改めて思う。中に入って、遊ぶということを、私はあまりしない。眺めているのが好きなのだ。確かに、中に入って一緒に遊べたらそれはそれでまた楽しいんだろうなと思う。でも何だろう、今この場は、私は眺めている方が私に合っている、というような、そんな気持ちが私の中に在ることに気づく。いつから私はそんなふうに自分を枠組みしていたんだろう。ちょっと不思議。
夜行バスで帰っていった友人を見送るとき、娘は走り出すバスに並走して、手を振っていた。そして戻ってきた娘が言う。私ね、Oのこととっても好きなの。だって嘘つかないし、ごまかさないでしょ。うんうん、そうだね。どんな小さなことも絶対ごまかしたり嘘ついたりしないから、私、大好き! うん、そうかそうか。子供だからといって侮ってはならない。子供だからこそ、見えるものが、敏感に感じ取れるものがそこに、在る。

今日から娘は春期講習。昼過ぎまであるため、私は急いで弁当を作る。彼女のリクエストに応えて、生姜焼きとブロッコリーと苺とうずらの卵。それからおにぎり。
じゃぁね、それじゃぁね、手を振って別れる。ママ、自転車気をつけてね! 通りの向こうから娘の声が飛んでくる。だから私も、あなたも気をつけてね! と返す。
公園の桜はもう満開といった風情。そういえばこの近所に住んでいた頃は、この季節になると夜がとても賑やかだった。普段静かな住宅地なのに、この季節だけは、花見客が賑わいを見せた。そして朝になると、その残骸が横たわっているのだった。思い出すと懐かしい。
薄い桃色の花の渦の向こうは、薄い灰色の空。いつの間にか雲が広がった。陽射しは雲の向こうに遮られている。風が冷たい。
大通りを突っ切り、高架下を潜り、埋立地へ。銀杏の樹の新芽は、芽吹くのを今か今かと待っている。
海と川とが繋がる場所。鴎が数羽、集っているのが見える。静かに水面に浮かぶ姿は、白く輝く宝石のようで。私はしばし見惚れてしまう。
さぁ今日もまた一日が始まる。私は再びペダルを漕ぐ足に、力を込める。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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