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2010年04月01日(木)

眠りにどすんと落ちたと思ったら、ぼかんと起きた、というようなそんな妙な感じで目が覚める。私は果たしてどのくらい眠ったのだろうか。覚えていない。覚えていないが、でも、それなりに眠れたような。どすんと落ちたところで、へたっていたのかもしれない。それでも眠れたのだからよしとしよう。
窓を開けると、なんとなくぬるい空気。昨日までのあの寒さは何処へ行ったのか。ぬるい、ぼんやりした大気が辺りを覆っている。西の方はまだまだ雲があるけれども、南東の方はずいぶん雲が薄れた。今日は晴れるのだろうか、それともまだ曇りだろうか。微妙な具合だ。少し風がある。イフェイオンの花が揺れている。私の髪を撫でて風が吹いてゆく。その風もやはりぬるく、私にはあまり心地いい風ではない。居心地が悪くて、私はしゃがみこんで空を見上げることにする。明るくなってゆく空、薄く広がる雲の一部が、まるで龍の口のようになっている。子供の頃そういえば、こうして空を見上げて何時間でも過ごすことができた。変化してゆく雲の模様を、ただ追いかけて時間を過ごした。時には野っ原に寝転がって、時にはススキの茂みに隠れるようにして。あんな贅沢な時間の過ごし方、他にないよなぁと思う。
ムスカリの花の形が少しずつ崩れ始めている。円錐形の、まず下の方が、その形を崩し始める。それまで詰まっていた花芽が、ぱらぱらとまばらになってゆくのだ。そうして全体が隙間だらけになって、そうして終わる。今年の花が終わるまで、後もう少し間があるだろう。それまでこの花の色をめいいっぱい、楽しんでおこうと思う。
ミミエデン、今朝は珍しく粉を噴いた新芽が見当たらない。というより、今のところ出てくるだろう新芽をすべて摘んでしまったから、見当たるわけもない、か。あぁ次の新芽はいつ出てくるだろう。本当なら、その葉を思い切り広げ、陽射しを燦々と浴びて過ごすことができるはずなのだろうに。でも、もう少し、もう少しと信じて、いくしかない。
パスカリの隣、小さな桃色のぼんぼりのような花を咲かせる薔薇の樹の、新芽がだいぶ出てきた。最初粉を噴いたものも見られたが、こちらはもうだいぶいいらしい。今はもう大丈夫になった。油断は禁物だが、でも、こうして小さな葉を広げてゆく姿を見ることができることは、幸せだ。
窓を開けたまま、部屋に戻る。顔を洗い、鏡の中を覗く。ちょっと頬が赤らんでいる。そのまま目を閉じ、体の内奥へ、気持ちを向ける。
穴ぼこは、今朝も静かだ。おはよう穴ぼこさん。私は声を掛ける。穴ぼこは、呼吸はしているけれども、本当に静かで。とくん、とくんと脈打つ音が僅かに聴こえる程度。私はその音と、穴ぼこの気配に耳を澄ます。長いこと放置していたはずだから、彼女が私に慣れるまで、時間がかかるんだろうと思う。それでも、不思議だ、これが人ならば、他者ならば、拒絶もするんだろうに、彼女は私がここに在ることを赦してくれる。それだけでも、感謝したいと思う。長いこと彼女を放置しておいた私が、それでもここに在ることを赦してくれるのだから。
とくん、とくん、という呼吸音の向こう側で、ごそり、音がした。動く気配。でもそれもただ一度だけ。何処か痒かったのだろうか。私は話しかけることはせず、ただそこに在る。もう少し馴染むまで、こうしていようと思う。
そうして一旦穴ぼこに別れを告げ、私は「サミシイ」に会いにゆく。「サミシイ」はまるで砂に半分体を埋めて、それをただ黙って受け入れてそこに居るかのようで。私は「サミシイ」を見つめていると、とても切なくなる。「サミシイ」は何も言わず、でも、私には気づいたようで、私をじっと、見つめている。その目は黒く濡れていて、いや、黒といっても、緑がかった黒色で。その目が濡れている。涙を流しているわけではない。でも、濡れている。
あぁ、もう泣き疲れて、泣き果ててしまった後なのだ、と、思った。泣いて泣いて、泣いて泣いて、もうそれさえも、する気力が残っていないのが今なのだ、と。
ふと思い出した。私は小学六年生の頃、友人たちから泣き虫と呼ばれた時期があった。確かにその時期、本当によく泣いていた。ちょっと何かあると、すぐ涙がぼろぼろ零れた。小学五年生の頃先生に苛められて過ごした反動なのか、あたたかいクラスが、逆に、居心地が悪かった。自分が居ることが申し訳ない気がした。だから、ほんのちょっとのことでも泣けてきた。自分が何でも悪い気がした。でもごめんと言う言葉を声にするには遠くて、だからたまらなくなって泣いていた。卒業の時にはクラスメイトのほとんどから、「中学へ行ったら泣くなよ、もうみんなはいないんだからな」と言われたことを思い出す。
「サミシイ」には、そんなふうに、肩を叩いてくれる友人さえ、いなかったんじゃなかろうか。ただひとりで、こっそり、陰で、泣いていたんじゃなかろうか。そんな気がした。そうなのね、と私は声に出して言ってみる。彼女はただ、こちらを見つめている。ごめんね、放っておいて。私だけさっさと歩いていっちゃったのね、だからあなたはここでこんなふうにじっと埋もれているしかできなくなってしまったのね。私は小さく声に出して言ってみる。今気づいた。「サミシイ」の姿は、清宮質文先生の「九月の海辺」という絵に似ている。
あの絵を最初に見たとき、私はどきんとした。そして自然に涙が零れた。涙がもう溢れて溢れて、止まらなかった。あれはもしかしたら、私の中に居た「サミシイ」が反応していたんじゃぁなかろうか。突然そう思い至る。そう思い至って、はっとして私は「サミシイ」を凝視する。「サミシイ」も私を見つめている。
ひとりが寂しかったわけじゃなく、置いてきぼりになってしまったことが、彼女にはたまらなく寂しかったのだということに、今気づく。
あぁそうやって私は彼女を、置いてきぼりにしたんだ、ということに。
ごめんね。私は声を掛ける。ずっとごめんね。でももう大丈夫だから。私はあなたを置いてきぼりにはしないから。ここからは大丈夫だから。
私の目からも涙が溢れそうになった。でも、何故だろう、泣いてはいけない気がした。だから私は泣く代わりに、思い切り笑ってみせた。
また来るね。そう言って、手を振った。「サミシイ」はじっと、こちらを見つめていた。
なんだか目を開けても、ありありと、「サミシイ」の姿が私の目の中に、在った。
お湯を沸かしていると、ゴロがちょこちょこ小屋から出てくる。おはようゴロ。私は声を掛ける。ゴロは後ろ足でひょこっと立って、こちらを見上げている。鼻がひくひくしているのがここからでも分かる。私はその鼻の先を、ちょこんと指で触ってやる。
生姜茶を入れ、口に含みながらテーブルを見やる。白薔薇はまだ、咲いていてくれている。もう外側の花びらがずいぶん開いてきてしまって、そろそろ落ちてもおかしくはない頃合。その隣には、先日撮影で使った花たちが、新たに活けてある。その中には薄い煉瓦色のガーベラも入っており。このガーベラがとても大きな花で。色のせいだろうか、普段のガーベラよりずっと、おとなしげに見える。まるで暗い部屋の中、溶け込むかのような気配。
開けたままの窓から、風がそよそよと吹き込んでくる。揺れるカーテン。私は椅子に座り、朝の仕事を始める。

「人生の意味は生きることです。私たちは本当に生きているでしょうか?」「私が人生の意味とは何なのかを決めるのは、自分の先入見、欲求、欲望に従ってなのです。つまり、私の欲望が目的を決めるのです。たしかに、それは人生の目的ではありません。どちらがより重要でしょう―――人生の目的を見つけることか、それとも精神それ自体をその条件づけと尋求から自由にすることか? たぶん精神がそれ自らの条件づけから自由になるとき、まさにその自由そのものが目的になるでしょう。なぜなら、結局のところ、人が何らかの真理を発見できるのは自由の中でだけだからです」「ですから、第一に必要なものは自由なのです。人生の目的を探し求めることではありません」
「重要なのは人生のゴールが何かではありません。自分の混乱を、みじめさ、恐怖を、そして他のすべてを理解することです」「生きることの意味を十全に理解するには、私たちは自分のこんぐらがった日々の苦しみを理解しなければなりません」
「人生とは関係です。人生とは関係の中における行為です」「私が関係を理解しないとき、あるいは関係が混乱しているとき、そのときに私はより豊かな意味を求めるのです。なぜ私たちの人生はこうも空虚なのでしょう? 私たちはなぜこんなにも寂しく、欲求不満なのでしょう? それは私たちが自分自身を深く見つめたことが一度もなく、自分を理解したことがないからです。私たちは決して、この人生が私たちの知っていることばかりなのだとは自分に対して認めず、だから十分かつ完全に理解されるべきだとは認めないのです。私たちは自分自身から闘争することの方を好むので、それが関係から離れて人生の目的をたずね求めることの理由です。もしも私たちが、人々との、財産との、信念や考えとの自分の関係であるところの行為を理解し始めるなら、そのとき関係それ自体がそれ固有の報酬をもたらしてくれることに気づくでしょう。あなたは探し求める必要はないのです」

ねぇママ、友達に裏切られたときってママはどうするの? ん? だから、友達が裏切ってきたときって、ママだったらどうする? うーん、その友達にもよるなぁ。どうして? 私はね、裏切られたらもう、切る。切るのか、そっかぁ。どうしてそうするの? だって、向こうが裏切ってきたんだよ、傷ついたのはこっちなんだよ、切る以外、何もすることないじゃん。これ以上こっちだって傷つきたくないもん。なるほどぉ、そっかぁ。ママは違うの? うーん、相手によるなぁ。相手が大切な人だったら、ママは多分、待つなり話を聴くなりするなぁ。どうしてそんなこと、こっちがしなくちゃならないの? うーん、しなくちゃならないって考えると、なんかしっくり来ないなぁ、ママは。ママは、そうしたいから、するっていう感じかなぁ。ママ、ばかじゃない、傷つけられたのはこっちなんだよ? そうかぁ、そうなのかなぁ、うーん。ママは、傷ついたのはママだけじゃない気がするんだよね。本当に心の在る人だったら、人を傷つけるとき、同時にその人も傷ついてると思うんだよね。なんで? なんでかなぁ、ママが人を傷つけるときは、ママも心が痛いから、かなぁ。ふーん。あなたは誰かに意地悪するとき、心が痛まない? うーん…。もちろん、気づかないでやってる人もいるよね、自分が相手を傷つけてることを気づかない人。そういう人とは、ママは距離を持つようにしてる。ふーん。でも、自分で気づいて、人を傷つけてる人っていうのは、きっと理由があるんだろうなと思うから、その理由をいつか、聴きたいと思う。…そんなの、すぐには分からないじゃん。うん、そうだね、すぐには結果は出ないよね。だから、長いこと待つことになるときもあるよ。一年、二年、三年…そうやって年単位で人を待つこともある。えーーー! そんなの、損じゃん! ははは。損かぁ、ママはそうは思わないから、待つのは苦じゃない。えーーー、変なのぉ、ママ、変だよぉ。そうかなぁ、笑。
自分が思うとおりにしたらいいよ。相手が自分にとってどれだけ大事な相手なのかをちゃんと見極めた上で、どうするか、自分で決めたらいい。…。

東の空が、忙しい。ぱっくり雲が割れて陽光が燦々と降り注いだかと思えば、すぐにその割れ目がくっついて、暗く鼠色になってゆく。
私たちは一緒にバスに乗り、駅へ向かう。駅前で娘が降りる。それじゃぁね、また後でね。手を振って別れる。私は一つ先の、終点で降りる。
海と川とが繋がる場所で、しばし立ち止まる。鴎の群れが飛び交っている。微かな啼き声がこちらにも響いてくる。それにしてもこの辺り、人が多くなった。この通路が出来て以来、ぐんと増えた。私は人の流れに乗って、再び歩き出す。
そういえば今日はエイプリールフールなのだな、と思い出す。さて、娘にどんな嘘をつこう。ちょっと考えてみるが、適当な嘘が思い浮かばない。がっかりさせるのも申し訳ない。それなら最初から、嘘なんてつかない方がいいかもしれない。
歩道橋の上、ふと立ち止まり、四方を見やる。鼠色の雲がうねうねと空に広がっている。ぬるい風がびゅうぅと吹いてゆく。私は髪を結い直し、再び歩き出す。
さぁ今日もまた、一日が、始まる。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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