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2010年02月17日(水)

何やら騒々しい音で目が覚める。何だろう。小屋に近づいてみると、三人が三人とも外に出て、出入口の扉のところをがっしと掴んで待っている。ココアもミルクもがしがし、唯一ゴロだけが遠慮がちに、それでも扉のところで待っている。おはようゴロ、おはようミルク、おはようココア。どうしたの三人とも、一斉にそんなことされても、いっぺんにみんな手に乗っけるわけにはいかないんだから無理だよぉ。私は声を掛ける。それでもがしがしがし。扉の境目のところを齧っている。そしてこちらを見つめる円らな目。これで見つめられると、つい情がほだされるのだ。私はまずココアに手を差し出す。とんっと小さな音を立てて乗ってきたココアは、手のひらに乗った途端顔を洗い始める。私はそのおなかを人差し指でこにょこにょと撫でてやる。さて次はミルク。ミルクは扉を開ければ勝手に飛び出してくる。私が手のひらに乗せる暇もない。ちょっと待ってよと言いながら彼女の背中を掴んで手に乗せる。ちょっと興奮状態のミルクは、私の動作など全くお構いなしで、手のひらから二の腕まで一気に駆け上がってくる。私はそんなミルクの頭を撫でてから、一度ひっくり返しておなかを撫でて、それからそっと小屋に戻す。最後はゴロ。手のひらに乗せてやると、ぶるんと体を震わせ、そして動かなくなる。じっとしている。私は彼女の頭をこれもまた人差し指で撫でてやる。
お湯を沸かし、今朝は生姜茶を入れる。黒茶と生姜、それから最後に甜茶が加わったちょっと甘みのあるお茶だ。昨日見つけた。これからしばらくお世話になりそうな気配。おいしいのだ、とても。生姜の味もまろやかで、癖がない。プーアル茶にちょっと疲れていた私の口には、ちょうどいい。
カーテンを引いて窓を開けると、まだ夜の闇が辺りを包んでおり。点る灯りは四つ。どんよりとした雲が空全体を覆っている。今日も曇天なのかもしれない。思いながらじっと空を見上げる。でも何だろう、昨日よりはずっとあたたかい気がする。
ふぅふぅとお茶の湯気に息を吹きかけながらお茶を啜る。椅子に座って、私は朝の仕事に取り掛かる。

お弁当の具は何にしよう。とりあえず今冷蔵庫にある肉は豚と鶏。私は鶏肉を選んで、とりあえず唐揚げ粉をまぶす。簡単に簡単に。じゃぁ次はブロッコリーを茹でて、その後鶉卵を茹でて。お弁当用に安売りしていた小粒の苺を買ってきたからそれも詰めて。あっという間にお弁当はいっぱいになる。ご飯はいつものようにお握りを。
作り終えたお弁当をテーブルの上に置いて、私は復習を始める。家族療法のところだ。自分の体験も踏まえて、授業の内容を辿る。でも何だろう、たとえばうちの家族がそうであったように、どこまでも拒絶する家族だってある。少なくとも最初のうちは、拒絶するのが普通なんだろうな、なんて思ってしまう。それをどう解きほぐすことができるのか。世代を越えて連綿と続いてきた見えないルールを変更するというのが、その人たちにとってどれほど大変な作業になるか。
ノートを整理し終えたところにちょうど、娘が走って帰ってくる。もう最悪、いつまでたっても終わりの会が終わらないんだもん、これじゃぁ遅刻しちゃうよ! ほら、お弁当。うん、ありがとう。気をつけてね。うん、じゃぁまた後でね! 鞄に教科書やノートを突っ込んで、娘は再び玄関を飛び出してゆく。子供ってどうしてこんなに忙しいんだろう。いつも思う。こんなに忙しかったら、時間を味わっている暇なんて、ないんだろうな、と。もしかしたら私も昔はそうだったのかもしれない、いや、確かに私も忙しかった、でもその頃はそれが当たり前だと思っていたし、駆けずり回っていないと逆に心配というか不安にさえなるほど、忙しいことが当たり前だった。もう遠い昔だ。
娘がバスに乗るのをベランダから確かめ、私は部屋に戻り、本を開く。クリシュナムルティの「恐怖なしに生きる」という本だ。少し前から再び読み始めた。「恐怖を生みだす主な原因のひとつは、私たちが「あるがままの自分」と直面しようとしないことです」「確実なことから、不確実なことへの心の動きを、私は恐怖と呼んでいるのです」「思考というものはいつだって古いのです。なぜなら思考は記憶の反応であり、その記憶がそもそも古いのです。思考は時の流れの中で「怖い」という感覚を創りだしますが、それは実際に起こっていることではないのです」「私たちが恐れているものは、古いものの反復なのです。すなわち、未来へ向け投入されてきた思考を恐れているのです」「何かにじかに向かいあうとき恐怖はありません。恐怖があるのはそこに思考が入り込んだときだけです」「思考の作用のひとつは、始終何かを思いめぐらしているということです。私たちの多くは、心を絶えず何かでいっぱいにしておきたいのです。そうすれば、あるがままの自分を見なくてもすむからです。空っぽになることが怖いのです。自分の恐怖を直視するのが怖いのです」「あなたはあらゆることを恐れていますが、そこにはただひとつの恐怖があるだけです」「恐怖とはさまざまな形で表れる単一の動きなのだということ」「いかなる結論も出さずに、また恐怖に関して蓄積してきたどんな知識も介入させずに、恐怖を見つめる」「心が自分のさまざまな問題や不安についてああだこうだと自問自答している場合には、人の話していることに耳を傾けられません。それと同じで、恐怖を見つめることができるのは、心がほんとうに静かなときだけです」「観察者こそが恐怖そのものです」「自分は恐怖と分離したものではなく、その一部であり、自分が恐怖であることを理解するとき、恐怖に対してはもう何もできません。そのとき、恐怖は終わりを告げるのです」。

娘から短いメールがことりと届く。「ママ、お弁当忘れちゃったよ。悲しい!」。私は慌てて彼女の机を振り返る。そこには確かにお弁当が。あぁ、今頃おなかを空かせているんだろうなぁ、思いながら、私はメールの返事を打つ。「あぁ残念。じゃぁ帰ってきたら食べてね!」。友達がばくばくお弁当を食べているのを見ながら、彼女は今どんな思いをしているんだろう。かわいそうに。帰ってきたら、お弁当をあたため直してやろう。

押入れを整理していて、大量のカセットテープが出てくる。さて、これをどうしたものか。様々なアーティストのミュージックテープ。あの頃の私は、テープレコーダーしか持っていなくて、だから友人にいつも、カセットテープにダビングしてもらったものだった。懐かしい。それにしても、自分は、本当に雑食だったのだなぁと改めて思う。これというジャンルじゃなく、あっちこっちをつまみ食いしている。カセットテープをひとつひとつ眺めていて気づいた。このテープは誰それから、このテープは誰から、といちいち書いてある。そういえばこの人からよくダビングしてもらったっけ、と私は眺めながら笑う。もう昔の昔。制服を着ていた、懐かしい遠い昔。
結局まだ棄てられず。私はとりあえず元の場所にカセットテープを戻し、押入れを閉める。また時期が来たら、その時片付ければいい。今はもうしばらくここで、眠っていてもらおう。

娘が朝から、以前録画していた「地獄少女」を見ている。私はそれに対抗して、ASIAの曲をがんがん流している。すぐ近くにいるのに、全くそれぞれ別のことをして、朝のしばしの時間を過ごす。突然娘が言う。ママ、その曲、どんくらーって聴こえる。どんくら? どんだけ暗いわけ? 違うよぉ、ドントクライって言ってるんだよ。えー、どんくら、どんくら、俺は暗いぜーってヤケクソになってる感じ。…そういう解釈も、あるってことね、そういうのは初めて聴いた。どんくらって言ってるのに明るい曲だよね。だからぁ、これはドントクライって言ってるんであって、暗いって言ってるわけじゃないから。私は大笑いする。彼女はどんくらどんくらと言いながら腰を振って踊り出す。
じゃぁね、うんじゃぁね。娘の手のひらに乗ったココアのおなかを、私はもう一度人差し指でこにょこにょ撫でる。
玄関を出るとやはり曇天。重たげな雲が空を覆い隠している。階段を駆け下り、自転車に跨る。ちょうどやってきたバスと競争しながら走り、私は角を曲がる。
公園に立ち寄ると、やはり今日は氷が張っていない。たぷたぷとした水が小さい池の中、ゆったりと横たわっている。そこにはこちらに迫ってくるような雲と裸の枝々とが映り込んでいる。私はそれに向かって、小さな石を投げてみる。ぽちゃっと音を立てて沈んだ石の、波紋だけがふわわと池に広がる。
高架下を潜り、埋立地へ。プラタナスは綺麗に枝を払われ、風に身をちぢこませながらそこに立っている。
見上げれば曇天。でも。
それでもあの向こうには青空が広がっている。
私はもう一度思い切り足に力を込めて、ペダルを漕ぎ出す。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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