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恋する暴力

「人のセックスを笑うな」の山崎ナオコーラさんが光源氏はマザコンでロリコンだと述べてあったけれど、今も昔も日本人男性、もとい世界中の男性てそんなものだと思う。

ただ、この物語、この平安時代、恋愛が成就するにあたっての流れを見ると、夜這いてコレ、ほぼ合意ナシのレイプじゃない??と今さらながら驚愕する。垣間見だって立派な覗きで犯罪だ。と言うか、この時代て恋愛自体がもうだいたい暴力だ。

美しさやロマンティシズムに装飾されていても、いくらイケメンで裕福で身分が高くても、それが男らしさとして語られるのなら大学サークルのレイプ時間を指して、政治家が元気があると評した異常性ものもわかる気がする。

前回「愛される暴力」について書いたが、その前段階の「恋すること、恋されること」だってかなりの厄災だと最近痛感するようにになった。

「光る君へ」で兼家がちやはを刺し、血しぶきの舞ったヴァイオレンス表現が話題になったが、恋愛そのものだって、暴力と構造がほぼ変わらない。

まひろは母が殺されたと知った時はまだ泣かなかった。彼女が号泣し、怒り狂い、恨み続けたのは、その殺人がなかったことにされたからだ。レイプもそのものはなんとか乗り越えられるとしても、社会のシステムとしてそれが当然とされると知った時女たちは絶望する。

身分や生まれでの圧倒的に勝ち組の貴族たちが、下々のものへ振るう暴力もレイプも逆らえないのって本当に怖い。高貴な身分の女性たちさえ帝や皇族からの夜這いには抗議もできない。

道兼に刺されたちやはも一応藤原北家で貴族の端くれだ。それなのに刺し殺されても何も言えないとなると、恋愛においてもおそらく状況は同じことが言えるのはあきらかだ。

時代も文化も違うとはいえ、当時の女性たちもその理不尽な世間のあたりまえな常識とシステムに悲しみ憤っていたのだろう。その声なき怒りに溢れていて、紫式部はそれを代弁したからこそ、千年を超えるベストセラーになったのかもしれない。

この年齢になって思ったのは、源氏を拒んだ女性たちの心情が、そらそうだろう!と思わざるを得なくなってきたことだ。いくらイケメンでお金持ちの皇子さまでも、無理無理無理!となるシチュエーションとパターンばかりだ。

まず源氏の永遠の女性の藤壺の宮。父帝の后ならフツーに無理だ。光源氏とのたった一度の契りで冷泉帝を身ごもるけれど、その後は源氏を拒み続けたのも当然だ。噂が立てば息子は廃太子にされてしまう。

空蝉にしても人妻なのだからそりゃあ無理。ただ、身分がこれだけ違うと、夫の伊予乃介も留守を任された息子も源氏に何も言えない、むしろ、宴会の肴にご自由にと家の女を差し出さざるを得ないところがあったような描写がある。それならなおさら差し出された女はプライドがあれば意地としてその後は拒むしかない。

当時の三日間通って正式の夫婦になるという風習は、犯された後になら、やっと女性は合意をあらわせる、嫌ならそこで断われ、という一応セーフティ?システムだったのかもしれない。

朧月夜という時の権力者右大臣の姫すらも源氏に「まろは許されたれば」私は何をしても許される身分なのですよと言われ、濡れ場を目撃した父右大臣も表立って抗議できない。

源氏がしっかり相手の気持をおもんばかり、合意を確認するのは、身分も高いいとこの宮家、朝顔の君くらいではないか。身分が近いせいか、源氏も彼女には決して強引なことはしない。

末摘花の君も同じ宮家だけれど、めんどうな親もいない、経済的にひたすら頼ってくる女は好都合、と頭中将と話すシーンがあってさすげにゲスいけど、多くの男の本音なのかもしれない。

夕顔の君は合意を得たようだけれど、のちに、彼女はお付きのものたちの生活のために、源氏に扇を送ったという証言がある。夕顔には売春婦説もあるのはこのせいだろう。

ロマンチックな恋物語のようで、実態はほぼ合意なしのレイプ。そして合意に見えてもだいたい生活がかかっている。もしくは家や親の圧力がバックにある。明石の御方や、葵の上も合意は親のみだ。

紫の上にいたっては少女時代に拉致された上にレイプされていて、その後朝でも源氏の態度はさすがに読んでいてキモすぎん?となる。彼女も宮家の娘とはいえ脇腹で実家からも疎遠にされているということがあるからこその足元を見た源氏の暴挙だ。

では、誰が源氏との恋愛を、レイプもされずに、対等にやりとりできたか?というと、先に出した朝顔の君と橘の君の2人だ。

朝顔の君は身体の関係を拒み続ける。文のやり取りは心を尽くして思いやりに満ちて入るけれど、肉体関係は一切ない。本人曰く、誰よりも光源氏を愛しているけれど、女たちの争うの中に身をおきたくない、と父の浮気(というか、当時の当たり前の婚姻システム)に苦しんだ母を見ながら思うのだ。プラトニックの恋愛なら、致命傷に苦しむことはない。いやおうなしに肉体と愛の暴力の中に自らを投げ込むことはできない。

婚姻の常識が女性にとって過酷なものなら、それを静かに拒むことで、朝顔の君はやっと自由を得ている。

橘の君は見た目もよくない自覚があり、美しさを競う争いからは早々に降りていて、夕霧の世話をしたり、母親としての仕事に専念し、自ら褥を外して源氏に驚かれている。

源氏物語の多くの女性たちは(ex藤壺、朧月夜、空蝉、浮舟)出家することでやっと自由を得ていて、女であることを捨てることでしか手段がない事実に愕然とするけれど、朝顔の君と橘の君は現世にいても肉体の愛を拒むことで幸せと充実を得ている。

そう考えると源氏物語はまた読みかたが変わってくる。

源氏物語だけでなく、古今東西、現代に至るまで恋物語はロマンチックなものとして溢れているけれど、よくよく考えると、最近まで妊娠で命を落とすことも多かった女性たちを考えても、恋をしてセックスすることは命に関わる、命を投げ出す行為だ。

愛されることは相手の命を握ることではあるけれど、恋することだって命を預けると同じのこと。

I love youの翻訳として夏目漱石が「月が綺麗ですね」と訳し、二葉亭四迷が「死んでもいい」と返しを考えたそうだけど、恋は死んでもいいとと思える相手でないと命を預けられない。合意がないなんてありえない。

光る君へで紫式部となるまひろも、これから、男性に翻弄されて不幸になる女性、生活のために男性に頼るしかない女性を散々見るのだろう。まひろ自身、拒み、引くことで身を守ることも多くなるのかもしれない。

ここで新しいのは、まひろはまひろで、書くこと、を自分の中心に置き、男性や社会の中で自分を保ちつつ、戦っていく。帝に翻弄される詮子や、有力者の息子に殺されても、夫に病死扱いにされてしまうちやは、源氏に物語に出てきたような悲しい女性たち、とは違う、書くことによって戦うヒロインだ。

女性が主人公の大河はスイーツ大河と嘲られることも多いが、吉高由里子演じるこのドラマは、戦い、命をかけて恋する女性のためのドラマになることを期待している。



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