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【企画参加】心に残るあのエピソードをあなたへ

はじめてバトンというものを受け取った。
 趣旨にあうものかどうかは分からないが、私なりに書いてみようと思う。

何度か記事にしたこともあるが、
私には息子が二人いる。
ひとりは社会人、ひとりは大学1年生。

そして、ふたりとも小学生のとき、ADHDという診断を受けている。

私の子育ては、順調ではなかった。

愚かな母親だった私は、長男が幼稚園のころから発達の遅れをやんわりと指摘されながらも、真っ向から向き合えなかったのだ。

きっと、個性の範囲内?
うん、そうに違いない。
私の子供だもの、発達が人より遅れてるなんてない。
ありえない。

ううん、そんなこと、許せない。

とちらかというと器用で、頭の回転が早く狡猾な子供であった私は、「どんくさい」「できない」同級生にかなりの差別意識をもっていたのだと思う。

我が子がクラスで「困ったねえ」と思われているなんて、受け入れられなかった。

毎日毎日、連絡帳に赤字で書かれている担任の「○○ができていません」「○○をもってきてません」の否定から始まる文章を息を潜めて読んだ。

その時間と向き合うのがつらく、やがて夫にその役目を押し付け、私はわざと夜に仕事を入れた。
深夜12時をすぎるまで家に帰らず、
海岸に車を停めてぼーっとしていて、何度も職務質問された。

飲めないお酒をあおり、
浮き足だった夜の街でのふわふわした交流に逃げた。

最低だった。

運動会も、授業参観もできるだけ仕事を入れた。向き合うのが辛かった。見たくなかった。それでも、平日にある家庭訪問だけは夫には頼めない。

長男のとき、担任ガチャが外ればかりだった私は、いつか教師そのものを信用しなくなった。

私はただ心を無にして、心の鎧を着て家庭訪問の15分を過ごす。

これが終われば、あと1年は逃げられる。

○○ができません、いつもひとりでいます、忘れものがおおくて困ります。
お母さんが気をつけてあげて。

お母さんがお母さんがお母さんが。

またそんな言葉がくるのだろうとおもって、その日も次男の担任と対峙した。

その担任は、50代くらいだろうか。いかにもベテランといった風情で、悪い感じはしなかった。

「○○くんのこと、聞いてます。療育にも今月から行かれてるんですね。お母さん、がんばりましたね。今まできつかったでしょう」

え?

その言葉を聞いたとき、私はもう涙がとまらなくて、担任の前で号泣してしまった。
そして、何を話したのかまったく覚えていない。

否定されないって、こんなに楽なことなんだ、とそのとき初めて思った。家庭訪問がおわったあとも、ずっと玄関からうごけなかった。

何か、流れが変わったのを感じた。

それから私は、少しずつ前を向けるようになった。担任にも心を開くよう努力した。
心配なことはあちらから言われる前に、私から相談した。

そうすると、教師も人間。
少しずつコミュニケーションがとれるようになった。

親業コーチング、カウンセリング、NLP、スピリチュアルにも寄り道した。傾聴、話し方も習いにいった。
そして、個性学にいきついた。

あの担任との15分がなければ、私はまだ闇の中にいただろう。

一瞬先は闇、ということばをよく聞く。
だが、一瞬先は光、も確かにあるのだ。

あの家庭訪問の日がなければ、私はいまここにいないかもしれない。
死んでしまいたいほどの長い夜は、あの日から私のもとを離れていった。

重い話になったが、心に残るエピソード、といえばこれかと思い書いてみた。


先生、ほんとうにあのときはありがとう。


私にバトンをくださったのは紫乃さん。
先輩としての背中をいつも見せてくださいます。目標とする大人の女性。

とても美しい記事でした。

そして、私がバトンを繋ぐのはとき子さん。

天真爛漫のようでいて、ガラス細工のように繊細な面もあるとき子さん。
まさに愛のひと。

チェーンナーさん、参加させていただきありがとうございました!









 

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