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創作を阻む、余計なひとこと

昨日アマゾンプライムで、「ラヂオの時間」を見た。

もう20年くらい前の作品。深夜のラジオドラマ収録のラジオ局を舞台に、お話がどんどん展開する。

そこはそれ、三谷作品だからいろんな展開になりつつも最後は全部伏線は回収され、すっきり楽しく終わる。

鈴木京香さん演じる、一般公募で選ばれた脚本家(詳しく言うと、一作品しか応募がなかっただけ)の脚本が、

生放送で、オンエア中にも関わらず、演者のワガママやスポンサーの事情により、どんどん脚本がラジオクルーにねじ曲げられて、最後はまったく違う話になってしまうドタバタ劇なのだけれど、

いちばん印象に残ったのが、脚本家の夫が成り行きで収録現場にやってきて、夫婦で、妻の書いた作品について話し合う場面だった。

夫の職業は「車のセールスマン」で、妻が書いたお話のなかでは、主人公とは「最終的に結ばれない」相手の職業として書かれていた。

夫は、「俺と別れたいって思ってたのか・・・だから書いたのか」と、妻の浮気願望ととらえてしまい、ひとりで落ち込むのだ。

妻は、ただ「結ばれない相手」の職業に、詳細に書く必要があって、たまたま身近でリアルに見聞きしている夫の職業を設定しただけなのに。

あー、めんどくせー!と思った。

私たちは、こういうひとことで地味にライフを削られるのだ。

noteのクリエイターさんなら、私とおなじ感想をもつかたも多いかもしれない。


でも、創作活動をしない人からみると、「普段思ってないことを書けるわけがない」になるのだろうな。

たぶん。


note初期のころ、私なりに官能的な表現をした作品を投稿したことがある。でも、一番目についたスキとフォローが、主婦専門の風俗店のアカウントだった。

これで、私の「官能的作品」アンテナが萎えて(わりとすぐ萎えます)もう削除してしまった。

殺人事件を書くからもともと破壊欲があるとか、
不倫小説を書くから実際に浮気してるとか、そういう視線は創作活動のジャマにしかならん。


誰しもがクリエイターになる時代。家族であっても、余計なひとことはほしくないなあ、と改めて思ったのでありました。

ということで、サスペンス企画の告知を。

ただいま受付中ですよ!楽しみましょ!

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