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#21 南房総で停電になったときのこと⑤

停電2日目、停電、断水に電波障害…。東京に家があるんだし、停電復旧するまでは東京に避難しよう。昼食を終え、私は夫と東京へ行くための準備を始めた。ところが、息子は学校いつ始まるか分からないし、サーフィンもしたいからここに残りたいと言う。「明日も学校はないだろうし、こんな時にサーフィンなんてダメでしょ。停電もすぐには復旧しないだろうから東京へ帰ろう」と言っても、首を縦に振らない。「トイレはどうするの?ごはんは?」と聞くと、「トイレは近くの公園に行く。ごはんはカップラーメンでいい」。中学生のとき、息子は「勉強とサーフィンを両立させるために海の近くで高校生活を送りたい」と心に決め、館山にある県立高校を受験した。「もう東京へは戻らない」そんな決意からか、息子はめったに東京に帰ろうとしない。東京と南房総を行き来して二拠点居住をしている私と違い、息子は退路を断って、南房総に移住してきたのだ。息子の態度から、南房総が自分の故郷なんだから僕はここにいる、そんな強い気持ちを感じた。

頑なに残る意志を曲げない息子に困り果てていると、下で大きな声がしている。見下ろすと、真っ黒に日焼けした息子のサーフィン仲間の同級生3人が自転車で迎えにきていた。「学校ないし、スマホ見れないし、つまらないから」と、自転車で一人一人の家を回って声をかけ、炎天下の中、数十分かけてやってきたらしい。みんな汗だくだったが、久しぶりに仲間と会えて嬉しいのか「夏休みがもう一度来たぜ!」といったノリで、大騒ぎしている。先ほどまで、硬い表情だった息子も仲間に会って、一気に笑顔になり、ワイワイ話している。どの子の家もそれぞれ相当な被害はあったものの、家の屋根が飛ばされた、といったほどの深刻な被害はなかったようだ。

そして「今日はみんなで友達の家に泊まることにした」と言い出した。この夏休みにしょっちゅうお泊りさせてもらっていたお宅にみんなで泊まるのだという。「夜はバーベキューやるんだって」とのこと。こんな時にバーベキュー?と思ったが、要は冷凍庫で溶けてしまったお肉を焼いて、みんなで食べてしまおう、ということのようだった。こんな大変な時にお世話になるなんて…と、なんだか申し訳ない気もしたが、あまりに嬉しそうにしているので、「じゃあ、1泊させてもらって、明日も停電だったら、明日の夜迎えにくるね」ということにして、バーベキュー用に家の冷凍庫にあった干物やソーセージなどを持たせた。高校生男子4人はぬるいペットボトルを自転車のカゴに入れ、信号もつかず、電線が垂れ下がった海辺の道を、さび付いた自転車をキコキコ漕いで進んでいく。いつの間にか完全に地元の子どもになっていた息子の姿になんだかちょっとほっとし、お世話になる家へ挨拶に立ち寄った後、私と夫は東京へ向かった。

義父母にも、東京へ避難しないかと声をかけていたのだが「今日中に電気が復旧するみたいだから大丈夫」と断られた。確かに、スマホがつながる場所で東京電力のホームページを見たときは、館山市は明日中、南房総市は明後日中に概ね復旧というような見込みになっていたし、なんとなく「館山市内の人が多い地域から復旧させていくから、南房総市の人が住んでない町は後回しらしい」などという噂(推測?)が流れていたので、そのまま帰ってきてしまった。

ところが、実際に電気の復旧が早かったのは南房総市の海っぺりにある我が家の方だった。なんと、私が帰ったその日の夜に電気が復旧、水も使えるようになったので、通信障害は残っていたものの、息子は次の日からマンションに戻って、普通に生活ができるようになっていた。一方、義父母の家は、前日の段階で「通りを隔てたすぐそこまで電気が復旧していた」にも関わらず、復旧は翌日の昼のことだったという。復旧直後は嬉しそうだったが、眠れない夜が3晩も続いたためか、その後はしばらく体調を崩してしまっていた。今思うと、予め停電が長引くことが分かっていれば、早くに東京へ避難できていたのにと思う。

★ご近所さんもいるし、多少不便でも住み慣れた我が家が一番、という気持ちがあり、高齢者を説得して避難を決断してもらうのは難しい。けれど、暑い中の停電はダメージが大きい。時には無理やりにでも避難してもらうことも必要なことかもしれない

東京へ帰る道中で、私はこの台風がもたらした爪痕の酷さを改めて知ることになった。山道の方を走っていると、地域によっては、ほとんどの屋根がブルーシートになっていて、ビニールハウスがめちゃめちゃになっていたり、小屋が崩壊していたり、目を背けたくなるような惨状になっていた。はしごをかけて屋根に上ってブルーシートをかけているおじいさんも見た。看板が剥がれていたり、窓ガラスが割れてビニールを貼って応急処置してある車があったり、電柱が傾いていたり…なんていうか、これってもしかして被災地?と初めて感じた。

痛々しい光景を次々目にしながら千葉県を縦断、アクアラインの海ほたるで休憩することにした。冷房の効いた店内で飲んだスターバックスラテの美味しかったこと。「東京に帰ってきた」とほっとしたのと同時に、激しい違和感に襲われた。店内にはドリンクを片手に談笑している人たちがいて、みんな何事もなかったようにのんびり過ごしている。ここから1時間もかからない場所では、停電、断水、通信障害、店には商品が無く、屋根が吹き飛ばされたり、家が水浸しになったり、ガソリン不足になったり、とんでもなく大変なことになっているのに、なんだろう?この平和な日常感。まるで外国に来たみたい。

夫と話すうち、どうやら停電と電波障害が広い地域でおきたために情報が伝わらず、役所も被害が甚大すぎてその対応に手一杯で状況を把握できず、またそれを伝える手段もなかったために、ほとんど報道がされず、千葉県内はもちろん、お隣の東京にすら知られていないらしい、ということが分かってきた。これは少しでも誰かに知らせなきゃ!という思いで、車の中でFacebookに被害を知らせる書き込みをした。けれど、投稿ボタンを押すまでには、少なからず葛藤があった。

この2日間、私もなかなか大変な目にあったと思っている。でも、自宅の屋根が飛ばされて、家中が水浸しになって、ビニールハウスが壊れて作物が台無しになって、今夜も暑くて不安で寝れない夜を過ごしている人たちがいっぱいいるのに、私は何もせず、よりによって息子をお任せして逃げてきてしまった。そんな私が軽々と「大変なことになってます~」などと、発信する権利があるのか。いいのか。そんなことして。後ろめたい気持ちと、それでもやっぱりこの温度差は絶対おかしい、知らせなきゃ、という気持ちに揺れながら、文章を何度も書き直して投稿した。

★声を上げなきゃ被害は伝わらない!伝えることも支援の一つ

結局、翌日、翌々日あたりからはだんだんその被害状況が明らかになってきて、今度はびっくりするぐらい報道されるようになったのだが、今となっては、あの台風の次の日、まだスマホが使えた時に、なぜもっと被害の深刻さを伝えることができなかったのだろう、と後悔している。あの家に比べたらウチは大したことなかったし、とかなんとかゴチャゴチャ考えず、目にしたこと、耳にしたことを書いて伝えることは躊躇せずにやるべきだった、と反省している。

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