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2024年9月あたま時点での商売意欲

写真は、京都市左京区・一乗寺の叡山電鉄・一乗寺駅であります。左京区というのは、京都人にとっても「文化」のアレみたいですね。吉岡里帆さんがラジオでそう言ってました。8月の末に、18きっぷで京都に美術の展覧会をみにいったついでに、念願の恵文社一乗寺店という書店にいったときの写真です。
なぜ書店をめぐっているのか(鳥取とか尾鷲とかいろんなところへ)というと、私も書店をやりたいからですね。なんでも人のやりかたを参考にする勉強するのはいいことです。あと、基本的に給与所得を法人から得る方式でカネを得ていたのが、自営でなんとか商売してカネを得たいと画策している途中でもあります。
前職のバイトは8月中にめでたく退職のはこびとなり慶賀。そしてできた時間を使って念願の北アルプス登山にいってまいりました。黒部五郎岳。なかなかに奥深い山であり、1泊2日ではいけませんが、3泊4日ならば行けました。とはいえ、体力面ではなく自分の精神面(他の登山客が存在すること)に問題があり、なかなかもってこれは難題です。仕方ないといえば仕方ないのですが。体力面がまだいけるのはいいことですが、一説によれば登山において初老から老年のやつが滑落などの事故を起こす原因の最大のものは「判断のミス」であります。
考えてみれば、あたりまえといいますか、登山というのは面白いもので、足を一歩一歩前に出すときに、上りか下りかしかない(平らなところなどほぼありません)ので、常に「次にどこに足を踏み出すか」「その場所は浮き石ではなく確かに足を乗せて大丈夫か」「大きすぎる一歩ではないか」などの検証をほんの一瞬のうちに脳内で毎秒しているのであります。すごいですね。そして、最終的に転ばないようにしていますが、それでも下りでは、足を踏み出した場所が砂的な粒のところで足裏がずるるると滑ってしまい、前方に足が動いてころぶこともあるわけです。
緊張がつづくわけです。登山は下りが大変なのです。皆そういいます。私もそう思います。一瞬の判断がずっとつづくと脳がつかれてきますし、それは加齢した脳には厳しいですね。あと、他人の登山客が前とか後ろにいるとうるせえなと自然にそう思ってしまいますし、距離を離したいと思ってしまって自分のいいペースよりもっと上げてしまったりして、これも転びにつながる点ですね。
商売の話をするつもりが登山の話になってしまいました。戻します。

商売というのはものを売るということで、ずっといろいろ脳内で考えている中で、最初の一歩の関門は不動産であろうと思います。

もちろん、登山の下山と同じく、「商売を開始する」ための道のりはいろいろあろうとは思いますし、やってみないとわからないこともあるかと思いますが、「場」が必要なのは確かでしょう。それがネット通販であればネット上の「場」でありますし、リアルでお客さんに来てもらうならば不動産としての「店舗」ですね。
そこのハードルが高い。当たり前ですけど。

世の中には「なんでこの店はつぶれないの?」というような店があったり、またはシャッター商店街があったり、いろいろですが、私がだんだん歳月をへて聞くようになった理屈は
「あの店は土地を自分でもっていてだから家賃を払わなくていいんだ」だから儲からなくても死なない、というのです。
家賃無し、は、いいですけど、日々生きて食っていくのにカネがなくても食っていけるのは変ですよねえ。

結局そういう店は、最終的には、たちゆかなくなって、誰もそこにいなくなって、シャッターを下ろしたシャッター商店街になる、なっていく、ということのようです。
しかし本当の地方、辺縁、寒村にいけばいくほど、シャッターはおろか、店そのものが存在しなくなっていきます。
店。
店ってなんなんでしょうね。究極的には店などなくても人間は生きていけるはずですが、あったほうが便利です。

というか他人との間で役割分担するのが「店」ですよね。
ひとつの「店」が、ニーズを全て満たすなんてことはありえないので、この世にはいろんな店があります。同様に、製造業も第一次産業もいろんな種類があって、いろんなものをつくったり獲ってきたり育てたりしているのだと思います。サービス業も然り。

店は「そこに来てもらう場としての」店舗を要件としています。

流通というシステムがあって、客が直で売るものを置いてある場所に来る必要はなくなっていますが、それは流通が必然的にあるべき場合といえるでしょう。イカとかサンマが獲れる現場に住んでいなくても、イカやサンマは食いたいので、流通段階を経て魚屋やスーパーで買うわけです。

でもスーパーでは店員と立ち話とかあんまりしないですよね。魚屋だったらしたかもしれませんが。

まあどこかできいたような話ですけど、魚を「魚屋の解説をきいたり、下ごしらえを魚屋にしてもらったりして、買う」ほうが、スーパーよりも、いい感じだと思えば、スーパーより魚屋で魚を買うんじゃないですか?

それは「魚が喰いたい」よりもうちょっと大きい値で「魚屋と雑談したい」が入ってくると思うんですよね。

この「雑談したい」は、私は自分の欲望として、大変よくわかるのですが、なかなか言語化したりシステム化したりお金に換算したり、雑談そのものを売ったりできないという、なかなか手間のこんだ「こと」です。

わかりますかね。私はかつて勤務して働いていた経験がどこかであるんですが、そのときに何をしていたかというと、理学療法士をしていたんですが、病院に勤務していたんですよ。今では信じられませんが。
そして本業はもちろん患者さんに対して理学療法を行うことがそうなんですが、何が楽しかったかというと、看護師さんやヘルパーさんや事務の方々と雑談することが最高1番に楽しかったし、ある意味ではそれがあるから勤務できていたと言っても過言ではありません。でも勤務当時にそれを公言するわけにはいかなかったですね。だってそれはお金を生み出すことでも本業でもなかったから。

もし「雑談」を売り物にして街角で売ってみても、たぶんうまくいかないと思います。
そうではなくて、たとえば「レンタルなにもしない人」が、レンタルされている最中に、相手から独り言のようになにか他の人には言えないような内容のことを語られているばあい、それはなにもしない人が相槌を打ったりはしないかもしれないけど、一応これは「雑談」のほうに入ると思うんですよね。カウンセリングでもないし傾聴でもないけど、雑なことを語ったりしているわけじゃないですか。副次的に達成している。

そういうのが「ある」場所が「店」だと思うんですよ多分。
だから「店」でありさえすればあとはどうでもいいと思うんですが、いちおう看板としての建前として、何を売るかくらいはないといけないので、私が店をするなら好きなものを売るしかない(なぜなら好きなものについてしか語ったり調べたり取り寄せたりしたくないから)ので本屋にしました。新刊・古書。

なんでこういう文をここで書いているかというと、おそらくは今よんでいる本の影響が大きいですね。『武器としての土着思考』。ルチャ・リブロでおなじみ青木さんの本です。私設図書館ってなんだろうと思って読んでいますが、私設図書館が何なのかはこの本ではよくわかりませんでしたね。それはいいんですが、この本は極めて表現しにくいことを書いています。いわゆる田舎の共同体とは何か、みたいなことです。しかしそこに何があるか、そこにあるものこそが、実は、都会ではその成分が消失してしまったような機能ともいえるような、いや、機能と言ってはいけないような。わかりにくいじゃないですか。そうですね。

でも雑談には責任が発生しないんですよ。そして対価も生まれないし、友愛というにはいい加減(わるい意味で)すぎる。つまりその場限りです。しかし、「何もない」わけではない。意味がなくても、なにかある、んじゃないでしょうか。そう思いたいだけですが。

そんくらいの「いい加減な関係性」だけでやっていけたらどんなにいいか。これが理想です。重いのもつらいし、互酬の原則に縛られるのも大変です。おすそわけの食い物を貰ったら、何か返さなければと思うじゃないですか。本屋または古本屋が、何を返せると思いますか?まあ労役かしら。草を刈るとか雪かきするとか、でも夏には雪がないですね。いいです、それはあとで考えましょう。

ともかく、こういうこと(雑談やおすそわけを頂いたり配ったり)は、ネットショップじゃできないので、実店舗つまりリアル店舗がどうしても必要なんですよ。これが私の現実的な「商売意欲」です。

今回は店舗の重要性と雑談を希求していることについて語らせていただきました。このあと9月はアイスランド旅行にいくので、10月あたまの更新で何を書くか、旅行記か、それとも北海道に下見にいった話か、あるいは人生のピンチの話か、航空会社がストライキをおこしてまだ帰国していないのか、それはそのときになってみないと分かりません。

ではまた。

(追記:全く関係ありませんが、8月の後半に、ABEMAで西尾維新の物語シリーズのアニメの専門チャンネルが1週間だけ開設され、登山の合間にさんざんずっと見ていました。無職ならではです。このシリーズは、基本的には吸血鬼を助けてしまったゆえに自分も吸血鬼になってしまった高校生男子が主人公ですが、周囲はハーレムともいうべき女子だらけ(あるいは幽霊あるいはゾンビの女子なども)です。羨ましい。しかしお話は硬派で、というのは、扱う内容が、「過去の自分との対決」であったり、弱さを直視すること、失恋を現実として受け止めること、他人のために自分の命を投げ出すことができるか、など。文字として書くとそうかというだけかもしれませんが、現実としたら他人のために自分の命を投げ出すなんてことは絶対にできないですよ。私は。そういう究極的というか、ぎりぎりというか、脅威的ともいえる決断があらわれるのが西尾の小説なので、それがアニメとなって表れたとき、いわゆるWONDERがこちらに訪れます。

私がこの長いストーリー群の中で一番好きなのが、詐欺師が、依頼を受けて、「神となった少女を騙しにいく」という話です。死にそうなった最後に詐欺師は、神に対して、まだ少女だったころの彼女の、誰にも隠していた密な目標をつきつけます。
既読の人は、あああれかと思うでしょう。私は、この話を観るたびに(何度も観ています)、詐欺師に感情移入しています。詐欺師には、騙しを成功させることのモチベーションがあります。なぜ、成功させなくてはいけないのか。このお話の肝は、ここです。
騙しが成功したところで、詐欺師にとっては「本当の自分の密な目標」は達成できないのです。それは彼は表面上は「そんなことを考えてはいない」と言うでしょうし。誰にも、そんなことを考えているなんて、認めないでしょう。それに、認めたところで実現もしないことは確定していますし。
それでも彼は一所懸命、命がけで、詐欺を行うのです。
そこが私の、この話の、好きな、ところです。)

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