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12年前の3.11は電車の中で、、

今日は東日本大震災から12年目ですね。

いつのまにかこんなに日が経つのか…と思っています。

当時高校生だった私はまだ仙台にいて、仙山線の中で被災しました。

家族、家ともに被災したとは言えない被害だったので私は被災者ではないと思いますが、鮮明に残ってる記憶をせっかくなので書いてみようと思います😦

電車の中で泣いた瞬間

地震発生当時、私は仙山線の中にいました。

当時フジテレビでやっていた「美男ですね」をワンセグで見ながら帰宅中、その日の夜にあるはずだったコンサートのことで頭がいっぱいでした。

ワンセグ視聴中だったので地震速報がすぐに入ってきましたし、ワンテンポ遅れて携帯にも速報が入りました。

ただ、そんな状態に慣れていない私はなんの心の準備もできず、頭の中に??を抱えた状態で地震を迎えたのでした。

おばさんに言われた一言でパニックに

電車で向かいに座っていた親切なおばさんのことを鮮明に覚えています。

何の心の準備もせず地震を迎えた私は半泣き状態、横を見れば車が飛び跳ねているし、屋根から瓦が落ちてくるのも見える、、

その上、単線上で迎えた地震でいつ仙山線が脱線するか分からない、、

今よりも のほほん としてた私でも、これはやばいと気がつきました。

そんな私の向かいに座っていたのが、どんと構えた優しそうなおばさん。

地震が来ても動揺するそぶりもなく、半泣きの私を宥めてくれました。

が、その時彼女の口から、
「大丈夫よ。死ぬ時はみんな一緒なんだから」
と言われて私は余計パニックになりました。

え、まじ!?そこまで深刻!?
と半泣きが泣きに変わった瞬間でした。

これがまず鮮明に残っている記憶の一つです。

地震が収まって皆んなで線路の上を歩かなければならないときも、おばさんによく助けてもらったのを覚えています。

パニックにはなったものの、あの人がいてくれて良かったな…と思っています。

日常がありがたいと感じた日

その後、父親と偶然にも合流し無事に家に辿り着きました。

家は無事だったものの、中はぐちゃぐちゃ。
片付けの日々が続きました。

うちの親は仕事柄、職場に向かわなければならず、しかも地震の被害により超多忙。

兄弟と2人で家で過ごすか、職場の一室を借りながら時間を潰したのを覚えています。

当時からポンコツマックスだった私は、地震直後に父の職場が非常電源により電気が通っていたことで、まさか携帯が充電できなくなるとは思っておらず、途中から携帯からのニュースが入ってこなくなりました。

ほとんど情報のない中で暮らしていましたが、それでも地元の中で唯ならぬ重たい空気が流れていたことはよく分かりました。

ピアノが弾けなくなる

そんな中でピアノを弾くのは躊躇しました。

少なからず音漏れがしてご近所さんにピアノの音が届いてしまう…と思ったら、弾くに弾けなかったのです。

いつもの光景とは違うこの状況に少し焦ったのを覚えています。
受験も控えているし、実技試験もあるし…と焦るのとは、また別の理由です。

それでも2週間近くはピアノは弾かず、そっと日常を送っていました。

あの時に初めて、
日常がありがたい
と認識することができました。

もちろん自分の音楽生活だけでそう感じた訳ではないけど、毎日何気なくピアノを弾いていた私にとっては何とも言えない経験でした。

今暮らしているオーストリアでは地震はほぼないに等しいけど、あの日のことは忘れずに物も心も備えておく…
が、今できることなのかなぁ🥺なんて考える3月11日。

今日

Yahooで3.11と検索すると募金ができる…のは多くの人が知っていると思います。

さて、いざ私もやるか、、と思ったところ、ヨーロッパからは検索ができなくなっていました🫠

ちょっと前からこちらではYahooを使うことができなくなりました。(メール等は別)

残念🥺

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