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禁酒、沁みとキレ、不良、川端康成



気付いたらひと月も酒を飲んでない。酒を覚えて以来こんなことは初めての気もする。
いや、酒をやめようと決意したことは過去に何度もあるので、その決意がひと月保ったことも一度ぐらいはあったかもしれない。しかしそれと今回とで大きく違うのは、今回は別に酒をやめようと思い決めたのではないということだ。
「今日なんか酒いらないな」が1週間ほど続いた後、「あれ、なんか最近飲んでないぞ」と気付き、せっかくだしぐらいのモチベーションでやめてるという経緯。
そんなわけなので今までの禁酒とは全然違う事態という感じが自分のなかにはある。もしかしたら酒をマジでやめられる時というのは、こうやってヌルッと訪れるのかもしれない。
かといって今まで禁酒に失敗し続けた日々を無駄だったとも思わない。アルコールの、脳直通型快楽とは違う、時間をかけて味わう快楽を模索しては失敗した日々が今に活きていると感じる。
強く思い続けた願いが、忘れかけた頃に時間を経て実を結ぶのは人生の常だけど、その実感は何度あってもそれなりに嬉しいもんだ。

酒を(今のところ)やめられているメリットは、まず第一に酒を飲まずにいられることだ。同語反復だが、酒を飲むことすなわち悪なのだから致し方ない。
デメリットのほうもいくつかある。まずタバコとカフェインがやめられないということ。
酒に比べたらその2つなんて最近生活に取り入れたものなので、酒をやめられるんなら余裕でやめられるだろうとたかを括っているのだが、同時並行でやめるというのは難しい。
体質的にカフェインは苦手で酒よりはるかに少ない量で吐くし、タバコに関しては酒より健康に悪いのは明白な上に喘息持ちでもあるから、この2つのほうがよほどやめないといけないのだが、今は手のつけようがない。
しかしまあ、酒を飲んだら禁煙もカフェイン断ちもどうでもよくなってしまうのだから、酒からやめるのが合理的だ。酒は全てをダメにする。酒は全てをダメにする……。

またもう一つのデメリットとして、好奇心が減退する。減退というか、酒を飲んでいる状態がブーストかかってるんであって、デフォルトに戻ってると言うべきなんだろう。既に愛好しているものにばかり目が向いて、新しく知らないものを知ろうという関心が薄い。
去年のワールドカップ、今年のWBCの効果もあって生まれて初めてスポーツに興味を持ち始めていたんだけど、スポーツって実はあんまり面白くないのではとも思い始めている。なんのスポーツにせよ酔っ払っていないとゲームを最後まで見ていられないように俺という人間はできているらしい。この前のバスケの日本vs台湾戦なんて1クォーターで離脱してしまった。
シラフだと「知らんやつが知らんやつからなんか点取ったけど、知らんがな」となってしまう。

劇映画を、根本的に面白くないと思ってる自分にも気付きつつある。そこに流れる一つの長大な時間に付き合わされる、煩わしさ喧しさ不愉快さと言ったら、もう。
劇映画はその分節し難さからして一等の時間芸術であり、酒とは対極の快楽と思う。酒自体はなんとかやめられたって、酒にハマってしまうような自分まではなかなか変えられない。
ところで蓮實重彦は下戸だとどこかで読んだ覚えがあるけど、逆に酒飲みのシネフィルなんてあり得るんだろうか?

先日友人の家で、好きなMVを見せ合うという楽しいやつをやったのだが(酒を飲まなくなると遊び方もわからないので困る)、自分の好みでない表現への、興味の動かなさにたじろいだ。
彼にカンフー映画を見せられたのは少し前だが、その夜には酒もあって、興味津々でいられた。
ジャッキーチェンの作品を見たことがないと言ったら、驚いておすすめを色々見せてくれた。26年間生きてきて興味を抱かなかったものがシックリくるなんてこともそうそうないわけで、やっぱりピンとこなかったのだが、それでも見ているうちに段々と京劇の強い影響が見て取れて、以降は京劇の近代バージョンとして楽しめた。
そういう、本来肌が合わないものを面白がる態度が、酒がないと出てきづらい。

ヒップホップのMVを中心に見る時間帯があり、友人は例えばクリーピーナッツ、俺は例えばeric b jrが好きなので、好みが重なるはずもなかった。
いかにも不良という曲ばかり選ぶ俺に友人が「不良の曲って自分とかけ離れてて沁みなくない? 」と言った。その言葉で、自分は沁みるか否かを基準に表現の好悪を決定したことがないと気付いた。

他に興味が分散しないぶんなのか図書館に行く回数が増えている。
『小川洋子の偏愛短編箱』を借りた。小川洋子の文章はかなり苦手なんだけど、目次を見てそのセレクトには興味を惹かれた。
そのうちのひとつである、川端康成の「花ある写真」という小品が、凄まじい。
川端康成は、昔から好きなものの少し前に卒業したつもりでいた。でも読むとやっぱりやられる。これも酒を抜いてる効果か? 酒に浸り過ぎた反動で、なんでも酒との関係に引き付けて考えてしまう……。
借りてすぐ、数ある短編のなかから真っ先に読もうとした。しかし書き出しが「卵巣を取ってしまったいとこが、僕には一人あります。その手術は、彼女が結婚をし、また男の子を一人産んでからのことでした」というキレッキレのいかにも川端節で、怯んで数日置いた。
他の短編をいくつか読んでから、読んだ。書き出しの予想を裏切らない、というか俺の予想なんて軽々と超えていく、厳つい小説だった。
川端の文章ってロシアンフックみたいな印象があって、死角からダメージを受ける、気がついた時には倒れてる。
卵巣を取ったいとこの話なのかと思いきや、別の女2人が卵巣の移植手術をする話が中心で、手術を受ける女たちの運命へ叙述が集中するかに見えて、卵巣を失うほうの女を写した写真に、花の幻が浮かぶという道具立ても鮮烈である。
細かく章に分かれているのだけど、ある章では、卵巣を失うほうの女は寝つきが悪く、枕元についている人の掌に文字を書きながら眠るという話に言葉を費やしている。「なんと書くのです。/なんと書くのでございますか。」という文で結ばれるその章を読んだ時、やっぱりこの作家は頭が狂ってる、と思った。

「花ある写真」を読みながら、友人の言葉が頭にあり、自分は「沁み」より「キレ」が好きらしいと思い至った。沁みは想いを誘う。キレは心の動きを凍らせる。
不良らしいラップは、決まってではないけれど、往々にしてキレている。
また、メロディアスなものよりは、速く、パーカッシブなラップに俺は身体的快感を覚えるというのも、ある。そして、パーカッシブなラップには、暴力的で、無情の、共感に媚びない言葉がよく似合う。そういう言葉がえてして「不良的」なだけだ。

時間潰しに新刊書店へ立ち寄り、小川洋子・佐伯一麦『川端康成の話をしようじゃないか』を軽く立ち読みした。
腑に落ちるタイトルだなと思って手に取った。川端康成という作家に、〜の話をしようじゃないかという言い回しはぴったりだ。知名度と読者の数のギャップに、忘れられたものを改めて思い出すようなニュアンスがハマるし、福田和也をして批評家泣かせと言わしめたその文体に、重い腰を上げるようなニュアンスがハマる。
キレのある言葉は、読む者を沈黙させる。そりゃ批評家泣かせだ。


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