滝本総一郎「八月の森へ行こう」レビュー

Twitterで繋がらせていただいている渡辺浩一氏(@syusai_nabe)氏による滝本総一郎名義(多方面の活動をされていて活動名、筆名を幾つか持たれてます)による「八月の森へ行こう」の感想? レビュー? 書きました。

作品は「小説家になろう」掲載しておられましたが、公募される先の条件のために2020年12月31日をもってリンクを外しました。

また同サイトにて名義名で検索することで、氏の別の作品も掲載されています。



滝本総一郎作
「八月の森へ行こう」レビュー

 演劇人でもある(単純化しすぎか、幅広い活動をされている)滝本総一郎氏による青年ミステリー小説。
 作者であり作中の主人公でもある滝本総一郎の書いた作品として提示されており、そのことそのものがこの作品の最終的な主題に関わっています。

 一読し、自分の乏しい読書経験の中からなぜか、サミュエル・R・ディレイニーの「アインシュタイン交点」が思い出されました。
 形式としては作者本人が幕間に登場するというかすかな共通点はあるんですが、ディレイニーの作はその内容、指すべき情報、構成や翻訳物としての語調などをひっくるめても、読者に異口同音に「難解」と称(ここでは、評、ではなく)される堅物だとおもいます。
 私自身も既に4、5回は読み直しており、他の読書子による感想や解説らしきものも幾つか目にはしているのんですが、何度読み返してみても、正直さっぱり分からないというていたらくです。

 それと比べこの「八月の森へ行こう」は、作中において(おそらくは)作者である滝本総一郎氏が過ごした義務教育年限最後の年と現在(これもまた曲者ですが)との行き来、作中における現実とその少し裏にある世界との行き来はあるものの、登場人物一人一人の立ち位置が明確なためか(後に述べる演劇性とも相まって)、読者に混乱を招くようなことは無い気がしています。

 それでも「難解」と評されるディレイニーの作品が私の頭に浮かぶのは、この「八月の森へ行こう」の作中に散りばめられている「青春」「思春期」という読み手側がほぼ100%経験してきているだろう「自らのその時」を思い出させる様々な文学的ガジェットと、その集積から読む側に引き起こされる感情という、読書経験の同質性にあるのでは無いかと考えています。
「アインシュタイン交点」における様々な「神話的寓話物」によって引き起こされる「何かそこには比喩表現が含まれているのでは?」という読みが一定引き出されるという感覚。
「八月の森へ行こう」においてのそれは、誰もが過ごした経験のあるであろう「ある時代」へと「青春神話」とでも呼べるほどの定式を持って読む者の前にばら撒かれているようです。

「中学三年生、最後の夏休み」
「美しい先生」
「緑深い山」
「部活に明け暮れる生徒」
「淡い恋心と親友への嫉妬心」
「将来への漠然とした不安と希望と若さ故の全能感」
「友人との秘密の共有」
「親世代への不信感と大人社会への未到達感」
 などなど。

 それらすべてが圧倒的に「この物語はあなたが過ごした『あの時代』のことを書いてるんですよ!」と読むもの、少なくとも私には迫り来ました。
 しかし、その「分かりやすさ」ゆえにか、最終章の「小さな物事の繰り返し」部分へとこちらの目が進み、読むという行為で、何か奇妙な引っかかりをもたらしてしまうと考えるのは邪道でしょうか。
 そしてそここそが私がディレイニー作品とこの「八月の森へ行こう」という小説にどこか同じ匂いを持つものだと、同質性がある作品だと感じた要因だと思われるのです。

 幅広い活動をされている作者の滝本総一郎氏ではありますが、所々の活動や発言を追っていくと、この小説が氏が主催されている集団において何度も上演された演劇内容を小説化されたものだということが理解できていきます。
 おそらく劇場においては、現代と過去を行き来する、現実とそれとは少し違う世界とを行き来する、まさに観劇者は己の脳を揺さぶられつつも終演後には青春賛歌として受け止めることの出来る作品ではなかったのかと、観劇してもいないのに(あるいはそれゆえに)勝手に空想してしまっている私がいます。
 そしてその空想が、この逆に小説化された作品にそのまま輸入されているのかという、若干の疑問も沸いてくるのです。

「美しい先生」が物語の冒頭近くで語る「正しい生態系が繰り返されている」森は、現実には存在し得ないものだと思います。

 そしてその森を描いた一枚の絵もまた、現実には存在し得ない「森」を美しく描き出してはいるものの、(二重表現ではありますが)決して「現実」を描いてはいないのではないのか。
 将来への希望を託す形で最後に示される一冊の本の表紙の持つ意味を、物語の結末部分に示される少年少女達の言葉そのままに受け取るべきものなのかどうなのか。

 それらが暗示する現実に存在しない「存在」こそが、思春期、青春期を迎えるある時代を生きる者達の希望と不安の間にある「何か」なのではなかろうかとの思い。
 その解釈は読むもの一人一人に委ねられているのだろうと思うのは、私が懐疑的過ぎるからかもとは思いつつ。

 小説というある「形」として存在しはじめた作品と、一度上演されるとその「形」は録画録音といったものでしか固定化?は出来ず、観劇者の頭の中での反芻となる演劇と。
 その間にあるであろう「揺らぎ」を体験したい方に、ぜひ目を通してもらいたい作品です。


2020年12月07日
三太


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