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第1話「二階崩れの変」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

大友義鎮(おおとも よししげ)は、西暦1530年(享禄三年)一月三日、豊後・肥後・筑後の三か国の戦国大名(現在の熊本県知事 兼 大分県南部、福岡県南部の支配権限所有者)であった大友家20代当主、大友義鑑(おおとも よしあき)の嫡男として生まれました。

義鎮の幼名は塩法師丸といい、傅役(教育係)として、津賀牟礼城(大分県竹田市入田矢原)城主・入田親誠(にゅうた ちかざね)が付けられました。

10歳で元服し、父・義鑑から「五郎」という通称を、そして当時の日本国政府であった足利幕府の12代将軍(現在の内閣総理大臣)足利義晴の諱(本名)の一字を授けられ、「義鎮(よししげ)」と名乗りました。

言い伝えによれば、義鎮の性格はかなり粗暴で家臣達に乱暴狼藉を働き、傅役の入田親誠ら一部の家臣からは、先行きを不安がられていました。また、生来体が弱く、当時としては非常に病弱な体質だったそうです。

そのせいで、父親の義鑑は、嫡男である義鎮を憂い、三男の塩市丸を可愛がり始めたと言われています。

なぜ次男じゃなく、三男かというと、義鑑次男の晴英は1544年(天文十二年)に母親の実家である、周防、長門の戦国大名(山口県知事)である大内義隆の猶子として外に出されていたので、嫡男がダメなら三男の塩市丸だったんですね。

そんなわけで、一部の家臣の間では「大友家の家督は塩市丸が継ぐのではないか」という噂話で持ち切りになり、家臣団は義鎮派と塩市丸派に大きく分かれ、派閥が形成されつつありました。

これを「チャーンス♪」とみたのが塩市丸の生母(肥後の国人領主、阿蘇惟豊の娘?)でした。

「このままいけば、わたしの息子が大友氏の跡取りになれるー♪」

たぶん、こんな気持ちだったでしょう。

その気持ちが高じた塩市丸の生母は「どうしたらこの計画を成功できるか」を考えはじめ、まず義鎮の守役である入田親誠の取り込みを行いました。粗暴でワガママいっぱいの幼き暴君ネロと化している義鎮に手を焼いていた親誠は、塩市丸の生母の企みを聞かされると、一も二もなく塩市丸に協力することを誓います。

次に、塩市丸の生母と親誠は共同で義鑑に対し「塩市丸に家督を継がせるよう」な工作を開始します。しかし、元々、義鎮の粗暴な性格を憂い、病弱な体質に呆れていた義鑑でしたので、それほど苦労することなく、廃嫡(跡継ぎでなくすこと)を考えるようになっていきました。

重臣暗殺

西暦1550年(天文十九年)二月十日、義鑑は、数日前より体の不調を訴えていた義鎮を見舞いました。そしてその体調を気遣って

「別府(大分県別府市)への湯治を許す」

という命を与えました。義鎮はこの父の計らいに感激し、供を連れてサッサと府内(現在の大分県大分市中心部)を離れ、別府へ旅だって行きました。

それを見届けた義鑑は、密かに齋藤播磨守、小佐井大和守、津久見美作守、田口蔵人佐の4人に遣いを出し、

「急ぎ内密の相談あり。急ぎ館まで参れ」

と義鑑自邸である大友館(現在の大分県大分市顕徳町一帯)に来い、と呼び寄せました。この四人は義鑑の命令で義鎮に仕えていた側衆でした。

何事かと思って大友館に集まった四人に対し、義鑑は

「思うところあって義鎮を廃嫡し、塩市丸を嫡男とする」

と宣言したので、四人はビックリしてしまいました。

「その方ども、意見あれば申せ」

と意見を求められたので、齋藤播磨守が

「我らは御屋形様の命によって、義鎮様に付けられたお側衆でございます。その我らに対して、例え御屋形様のご決断とはいえ、義鎮様を廃嫡されるとは.......恐れながら、にわかには受け入れ難いものがございます」

と言い、拒否の意向を示して、そのまま館を立ち去ってしまいました。残る3人も同意を示してやはり退出しました。

前述の通り、この4人は義鎮側衆であるため、廃嫡の理解は得られぬだろうと義鑑は想定していました。ですが、万が一、廃嫡に賛同する者が一人でも出れば、その者に義鎮の暗殺を命令するつもりでした。

しかしながら、一人も出なかっただけに、義鑑を別のリスクを考えざる得ませんでした。そう、

(もしこの計画が、あいつらの口から義鎮の耳に入ったらそれこそ一大事)

というリスクに気付いたのです。

(理解が得られないならば、致し方ない.....)

義鑑は、今後塩市丸が家督を継いだ場合に、障害というか邪魔者になるであろう義鎮側衆の口を封じ、義鎮の家中の発言力を低下させる方向に考えをシフトさせました。

その日の夜のこと。義鑑は考えた末に

「お前達の怒りは当然である。しかし、事は大友家の将来のこと。其方達の考えも踏まえた上で、より良い方策を考え直したいので、今一度、館に集まって欲しい」

という遣いを四人に出しました。齋藤と小佐井は大友館に再び上がり、広間に通されましたが、津久見と田口の姿はいつまで待っても見えません。

次の間に控えていた義鑑は

(美作と蔵人は何をしておるのだ......)

と焦りが出始めていました。四人まとめて一度に葬らねば口封じの意味がありません。

(しかし、このまま時間が経って播磨と大和に変に勘ぐられてもマズい)

と思い直すと、威儀をただして、広間の上座に姿を現しました。
齋藤と小佐井が義鑑の姿を見て、慌てて平伏すると

「よう参った。役目大義。斬れ!」

と義鑑が号令をかけ、三方の襖が突然開き、義鑑の家臣達が抜刀して齋藤と小佐井に斬り掛かりました。驚いた両人は刀を抜く隙もなく、その場で次々と義鑑の家臣にメッタ斬りにされてしまったのです。

理由もわからず、ただ呼び出されただけで斬り死となる2人の無念はいかばかりだったでしょうか。

義鑑は、絶命して床に伏している斎藤播磨守、小佐井大和守の死体から目を背けると

「この不埒者の骸を片付けろ」

と命じると、館に来なかった津久見美作守、田口蔵人佐の二人をどう始末するかに思案を走らせました。義鑑は、津久見と田口がこれから館に来るかどうか一晩待ち、来なかったら主命に従わなかった罪で兵を差し向けようと考えていました。

二階崩れの変

義鑑の側近四天王のうち、残った二人である津久見美作守田口蔵人佐はどうしていたかというと、津久見が田口の屋敷を訪れていました。

田口は出頭命令を受けて館に向かう準備をしているところで、いきなりの田口の訪問に「何事だろう」と訝しんでいました。

客間に通された津久見を「お待たせいたした」と迎えた田口でしたが、津久見は挨拶もせず「どうもキナ臭い」と一言言い放ちました。

「御屋形様(義鑑)のことでござるか」
田口は答え、津久見はそれに「うむ」と頷きました。

「御屋形様が病弱な義鎮様を遠ざけておられるのは知っておる。かというても義鎮様は正室のお子。塩市丸さまは側室のお子じゃ。いかに御屋形様がご寵愛だからといて、物事の筋目を違えては道理が通らぬ。そもそも家中が真っ二つに割れ、お家騒動が起きるぞ」

大友家はかつて16代当主・大友義治の時代に父子間の家督騒動があり、それは次代17代・義長の時代に家督の正当性を巡って、足利幕府管領・細川政元や、足利将軍家・足利義澄を巻き込んだお家騒動に発展していました。

家督を巡るお家騒動のような内部の権力闘争は、戦国時代においては、周辺諸国の安定が損なわれ、大友氏の国力の減退に繋がりかねない恐れがあったのです。

津久見の意見に一理あると感じた田口は、館に行くのを取りやめ、しばらく様子を見ることにしました。

やがて津久見の判断が正しいことが証明されます。義鑑家臣の佐伯惟教(豊後栂牟礼城主)が田口の屋敷に駆け込んできたからです。

「齋藤播磨守殿と小佐井大和守殿は、御屋形様に討たれ申した」

「やはり......」
津久見は自分の勘を正しさを再確認しました。田口は「まさか.......」と言いながら膝から崩れました。

「となると、次は我らを討ちにかかって来られるな」

と惟教に向けて尋ねると

「仰せの通り。おそらく明日に兵を動かされるでありましょう」

と惟教は答えました。

「佐伯殿はこれより急ぎ別府に参り、義鎮様に事の次第を申し上げていただきたい」

「心得た。で、津久見殿、田口殿はどうなされるので」

津久井はニヤリと笑って

「こちらが望むと望まぬと、かかってくる火の粉は振り払わねばなりますまい」

と天を仰ぎながらつぶやくように言いました。惟教は2人が死を覚悟しているのを見て取り、「これは一体、なんの因果ぞ!」と吐き捨てるように言いました。

「しからば、これにて御免」

惟教は二人に頭を下げると、急ぎ自分の馬に向けて駆けて行きました。

残された津久見と田口は屋敷の縁側に腰を下ろすと

「さて、田口殿。わしらもそろそろ進退を決めねばなるまいて」

と津久見が切り出しました。

「放っておいても、御屋形の兵がやってくる。急ぐ必要はあるまい」

田口も覚悟を決めたように言いました。

「じゃが、我らは若君義鎮様の側衆。いくら御屋形様の命令とは言え、廃嫡をゴリ押しするような真似をされては死んでも死にきれんわ」

「そうよのう......」

津久見と田口はお互い顔を見合わせながら

「どうせ殺されるなら.....」
「やるだけやるか.....」

初めてお互いの顔に笑顔が出た瞬間でした。
いくら無理難題をふっかけているとは言え、主君である義鑑に向けて、家臣である両人は刃は向けられません。なので、二人はこの騒動の元凶である塩市丸とその生母の殺害の実行を決心したのです。

二人は夜陰にまぎれて大友館に侵入。一目散に二階に駆け上がって塩市丸とその生母の姿を発見すると、一言も言葉を発せず、即座に一刀に斬り捨てました。

塩市丸は声も上げず即死でしたが、生母が一太刀を浴びて大きな悲鳴を上げた為、叫び声を聞いて義鑑の家来たちが二階に駆けつけ、その後、壮絶な斬り合いに発展してしまいました。

塩市丸と生母の隣の部屋で寝ていた義鑑が「何事じゃ」と刀を抜いて、襖を開いて出て来た時、津久見、田口が振り回した太刀筋が二つ、義鑑の体を走り、右肩から左脇下まで深々と斬りつけました。

「うぐ......?」
義鑑の体から凄まじい鮮血が吹き出し、それは瞬く間に義鑑の夜具を真っ赤に染め上げて行きました。

「御屋形様!」
義鑑の家来が義鑑を気遣う声を上げ、義鑑に駆け寄ります。
その一瞬、津久見と田口の動きが止まりました。

(え? 御屋形様?)
(御屋形様を斬ってしまった......?)

二人が止まったその一瞬の隙を義鑑の家来は見逃しませんでした。
津久井、田口両名は義鑑家来から同時に三、四太刀を深々と受け、その場に絶命したのです。

この騒動は大友館の二階で起きたことから、俗に「二階崩れの変」と言われました。義鑑が義鎮廃嫡後の後継者に考えていた塩市丸とその生母は殺害され、当主である義鑑も重傷を負いました。

ただ、本来の嫡子である義鎮は別府で湯治療養中であり、この難を逃れています。ここから、義鎮の、そして大友家の運命が大きく変わっていくことになります。

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