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以仁王って誰やねん

2022年1月23日(日)大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第3話「挙兵は慎重に」が放送されました。

第2話の終わり間際に、北条を自分の後ろ盾にするために政子と結婚し、その北条の力を足掛かりに挙兵の意思を表した源頼朝さん。その心を打ち明けられ「兄にも言うな」「頼れる弟」とされた北条義時くん。

今まではお兄ちゃんである宗時に散々振り回されますが、ここから先は頼朝からも振り回されます。すなわち、ここから義時の本当の受難が始まるのです。

第3話のスタートは第2話の終わりからおよそ3年後の西暦1180年(治承四年)まで飛びます。頼朝と政子はすでに結婚し、大姫(おおひめ)という娘まで生まれております。

この大姫は成長後は南沙良さんが演じられるわけですが、頼朝の生涯に大きなトラウマを残す悲劇のヒロインになってしまいます。

その話はおいおいしていくとして、今回の第3話は頼朝の挙兵のキッカケにもつながる大きな出来事がありました。

今回のキーパーソンはこの人たち(↓)です

以仁王(演:木村 昴)
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源 頼政(演:品川 徹)
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源 行家(演:杉本哲太)
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以仁王って誰やねん

第3話では「以仁王(もちひとおう)の令旨」という単語がいきなり出てきます。

「以仁王」は、このドラマの中で初めて出てきたキャラクターです。
この時代の歴史を知らない人にとっては「誰やねん」と思われて当然です。

その上、この人が当時の日本を牛耳っていた平清盛に謀反を起こしたとナレーションが説明しています。

いきなり出てきた新キャラが、いきなり平家に謀反?

かなりの無理がありますね。
このあたりを少しご説明します。

以仁王とは、この時代の治天の君(上皇)だった後白河法皇(演:西田敏行)の第三皇子(三男)でした。

以仁王は若くして出家し、天台座主(延暦寺のトップ)・最雲の弟子となりましたが、最雲の死後、俗世に戻って成人し、八条院暲子内親王(鳥羽法皇の娘/二条天皇の准母)の養子となります。

以仁王のお兄さんは二条天皇で、その二条が病死した後、その子(順仁親王/以仁王から見たら甥)が数え歳2歳で六条天皇となりました。

しかし、後白河の横槍によって、以仁王の弟(異母弟)で、平家の血筋である建春門院滋子(清盛の姪)の子・憲仁親王に皇位を譲らされ、高倉天皇となります。高倉の皇后は平清盛の娘・徳子(建礼門院)です。

つまり、ガッチガチの平家の血脈です(笑)

前回のエントリーでも書きましたが後白河と二条は仲が悪く(平治の乱の原因の1つ)、その二条の系統のまま皇位が継承されるのを後白河は良しとしていませんでした。

なので、後白河としては皇統をリセットさせたい思いもあり、そのためには自分の院政を支えてくれる平家を無視することはできなかったという痛いところがありました。

その結果、平家と縁のある高倉天皇の誕生となったのです。

本来であれば、そのリセットされた皇位は、二条天皇の弟で第三皇子である以仁王に回ってきてもおかしくはないのですが、平家というバックボーンを持たない(彼の母親は藤原家の出身。しかも女官の身分)彼にその機会は与えられませんでした。

さらに1180年(治承四年)2月、高倉天皇は自分の皇子である言仁親王(清盛の孫)に天皇の位を譲りました(安徳天皇)。そして自らは治天の君(上皇)として高倉院政を行います。
これで、以仁王は完全に皇位継承の蚊帳の外に置かれてしまったのです。

平家の中の源氏勢力・源頼政

源頼政は摂津源氏という清和源氏の本家筋(頼朝の河内源氏は分家筋)の出身です。

摂津源氏は原則として京を活動拠点とし、代々、大内守護(御所の警護=皇宮警察みたいなもの)を受け継いでいました。

頼政は「保元の乱」で源義朝に味方しましたが、続く「平治の乱」では最終決戦(六条河原合戦)で義朝から離脱し、平清盛に味方しました。
(これにはちゃんと理由があるんですが、本題とは関係ないので省略します)

以後、親平家の中で唯一の源氏勢力となったのですが、自分の役目である大内守護や御所の警備は引き続きこなしていました。

そんな中、彼の人生を一変させる出来事が起きました。

1178年(治承二年)、頼政は清盛の奏請により位階が正四位下から従三位に昇進します。

この時代はどの氏の出身かで昇進が決まっている時代で、摂津源氏の棟梁の極官(ごっかん/位階の最上位)は正四位でした。よって三位に昇った者はいません。なので頼政は摂津源氏として初めて三位に昇った者になります。

当時は三位以上の位階を持つ人は上級貴族(今の世ならまさに上級国民?)としての格式を持てるため、四位とは大きな違いがありました。

また平家ではない源氏の従三位への昇進は、他の者への影響も大きく、時の右大臣・九条兼実(従一位)「今日いちばんの驚き、これで驚かない人はいないだろう」と日記に記しています。

なお、頼政はこの翌年、すなわち1179年(治承三年)11月出家します。
この時、頼政74歳。位階を極め、もうやるべきことはなくなったと言わんばかりの出家だったようですが、理由は別にあったようです。

以仁王×頼政=正しき流れへの修正

ドラマの中でも描かれましたが、以仁王と源頼政は全国の武士勢力に平家打倒を呼びかける令旨(命令書)を作り、それを源行家に持たせて全国ドサ回りをさせました。

以仁王と頼政の接点がどのあたりにあったのかはわかりません。
そして親平家だった頼政がなぜ平家に逆らったのかもハッキリとはわかっていません。

ただ、頼政(いや摂津源氏の棟梁として)の行動は基本、大内(御所と皇室)の守護が第一であることからの推測ですが、清盛が後白河を拉致監禁した治承三年の政変(清盛のクーデター)が、平家謀反への1つのキッカケになったのではないかと思っております。

治承三年の政変とは、ものすごく簡単に言えば、平家に対して「頭に乗るな」と挑発しまくった後白河に清盛がブチ切れて、1179年(治承三年)11月14日、京都に軍勢を入れて後白河を監禁し、後白河を支持する公家をことごとく追放してその院政を強制停止させた事件です。

とはいえ、当時は「治天の君」がいなくなっては政治が滞りますので、当時の天皇で自分の娘の夫(義理の息子)だった高倉の皇位を、清盛の孫である言仁親王に譲位させ、安徳天皇とし、上皇となった高倉に院政を開始させました。

これで、平家は上皇も天皇も両方とも完全にコントロール下に置いてしまったのです。

これまで上皇や天皇を主人とし、内裏を守備してきた頼政からすれば、武力を持って天皇家を征する平家のやり方は許せるものではなかったでしょう。

そしてこの時、完全なるとばっちりを受けたのが以仁王です。
以仁王は後白河の皇子というだけで、なんの罪もないのに、平家に所領を奪われています。まさに酷い仕打ちです。

平家のせいで皇位も所領も失った以仁王。
平家の武力で主人と崇める天皇家を制圧された源頼政。

この二人が「平家を滅ぼし、この世を正しき流れの下に戻す」と考えるのは無理からぬことだったのではないでしょうか。

謎の叔父さん・源行家

ドラマでは、1180年(治承四年)4月27日、頼朝の館に源行家と名乗る山伏が現れています。

源行家とは、頼朝の祖父・源為義の十男で、通称「十郎」。当初は「源義盛」と名乗っていました。

したがって、頼朝の父・義朝の弟であり。頼朝にとっては叔父にあたります。

源氏凋落の原因となった「平治の乱」の際、この「十郎」も義朝に味方して戦闘に参加していました。

しかし、義朝軍が総崩れになった際に新宮(和歌山県新宮市)方面に逃亡しました。姉が熊野速玉大社(熊野三山の1つ)の社僧・行範に嫁いでいて、そこを頼ったのです。その際、平家の追求の手を逃れるために姓を「新宮」と変え、「新宮十郎義盛」と名乗ります。

前述の通り、以仁王と頼政が共謀して「令旨」を全国にばら撒くと決めた際、頼政がこの義盛をその使者として起用したと言われています。

その際、以仁王が八条院暲子内親王の養子であることから、義盛に「八条院の蔵人(八条院の事務員)」という役目が与えられています。

八条院の領地は全国200箇所以上に及んでおり、その蔵人であれば、誰の咎めを受けずに諸国の行脚ができると考えたようです。
(そもそも八条院の主である暲子内親王は二条天皇の准母であるため、畏れ多くて誰も手出しができない)

また、義盛もこれを期に源姓に復帰し、名前を「源行家」に変えています。

この人が以仁王の令旨を持って全国ドサ回りの旅の出かけたことが、全国各地の反平家運動の走りになったのは間違いないのですが、この人そのものはまぁ、残念なヒトとして歴史上に名前を残しております。

ナレ死で済まされた以仁王

行家がその令旨を持って京を出発したのが1180年(治承四年)4月ですが、早くも5月頭には平家にそのことが発覚します。

平家にチクったのは、熊野別当(熊野三山の統括者)湛増という人でした。行家がまだ新宮十郎義盛と名乗っていた頃、熊野方面に出入りしており、そこから情報が漏れたと考えるのが妥当かもしれません。

5月15日、清盛は勅命を奉じて以仁王を臣籍降下させ皇族から人臣に貶めて、土佐への流罪に処すと発表し、検非違使別当(現代の京都府警本部長)だった平時忠(清盛の甥)に以仁王の三条高倉邸に攻め込むように命令しました。

時忠は検非違使庁に出兵準備を命じますが、この準備を命ぜられた中に頼政の次男・源兼綱がおり、慌てて頼政に知らせます。

驚いた頼政は以仁王に使者を送り、密かに園城寺(三井寺/滋賀県大津市)に逃げるように伝えました。

当時、園城寺は興福寺(奈良)と並び後白河院支持派の中でも代表的な「仏教武闘派コンビ」だったため、平家の手から後白河の血統である以仁王を守るには最適の場所でした。

5月16日、時忠は園城寺に対して以仁王の身柄引渡しを要求しますが、当然拒否。さらに匿われた以仁王は延暦寺にも「手を貸せ」と呼び掛けます。

時忠は武力を用いて宗教施設に攻め込むことを躊躇していましたが、一向にラチが開かない状況に清盛の怒りが爆発。

21日になって、清盛は自ら園城寺攻撃部隊を編成し、出陣を命じました。大将の編成は次の通りです。

平頼盛(従二位)
平教盛(正三位 参議)
平経盛(正三位 皇太后宮権大夫 兼 修理大夫)
平知盛(従三位 左兵衛督)
平重衡(正四位下 左近衛権中将)
平維盛(正四位下)
平資盛(従四位上 右近衛権少将)
平清経(従四位上 左近衛権少将)
源頼政(従三位)

この時点で頼政が以仁王攻撃軍の大将に入っていることから、清盛は頼政が以仁王の謀反に加担しているとは全く気づいていなかったようです。

ここで頼政は園城寺の攻撃部隊に加わりながら、50騎を率いて園城寺に合流します。これで清盛の怒りはオーバーヒート状態(汗)に。

怒りの清盛は延暦寺とコンタクトを取り、内部の親平家の僧たちを動かして、園城寺の誘いに乗らないように議論を仕向けます。

これにより、延暦寺が園城寺の誘いに「嫌だよーん♪」と拒否したため、園城寺の内部に不協和音が生じました。

「おい、これ、この後どうすんの?」
「平家と戦うのか?」


園城寺としては以仁王が後白河の血統だから保護しましたが、かといって平家とガチで戦争する気はなかったんです。

よって、このままではちょっと居づらい雰囲気を感じた以仁王と頼政は、園城寺を出て、平等院(京都府宇治市)に陣を移します。

5月26日、平家の特別攻撃隊が平等院を攻撃。頼政は以仁王を奈良の興福寺方面に逃すと、必死で防戦して平等院を死守し、京周辺における頼政一族はここで全滅しました(一部の子供は伊豆で無事)

そして以仁王も興福寺に向かう途中、流れ矢にあたって亡くなります。

ドラマではこの戦いの有り様が三善康信の書状とナレーションであっさり終わってしまいました。

ちなみに、三善康信の書状が頼朝のところに来たのは『吾妻鏡』(鎌倉幕府の歴史書)にも記載があり、それは6月19日のことと言われています。

その書状には

「先月26日以仁王が亡くなった後、平家は令旨を受け取った源氏は全て滅ぼすように命令を出しました。佐殿は河内源氏の嫡流なので特に危険。早く東北に逃げてください」

とあったそうです。
また、6月26日、所用で京都に行っていた三浦義澄(演:佐藤B作)千葉胤頼坂東(東国)に戻ってきて、伊豆の北条館を訪問しています。この時、二人は頼朝に以仁王と頼政の謀反について詳しく話しているようです。

戦力分析を行なったのは安達盛長

ドラマでは義時が頼朝に味方する武士の勢力を分析して、頼朝に伝えるシーンがありました。

頼朝「必ず勝てるといおう証がない限り、挙兵はできん!」

義時「……勝てます。この戦」

頼朝「……?」

頼朝「挙兵された時、どれくらいの兵力となるか割り出してみたのです。味方となりそうな豪族を選び、国衙(役所)にあった木簡から、それぞれが納める米の量を調べ、民の数を推し量りました。民の数がわかれば、兵の数もわかります」

頼朝「……」

義時「北条、新田、加藤、狩野、宇佐美、これでざっと300。目代・山木の兵とは互角。まずはこの初戦で必ず勝ちます。そうなれば相模の三浦、和田、土肥、佐々木。佐殿に最も近い山内首藤。さらに武蔵の畠山、熊谷なども味方につくはず、伊豆の10倍(の兵力)にはなりましょう。つまりその数……3000!」

宗時「さ…..3000?」

義時「当面の敵は大庭と伊東。どうかき集めても2000が限り。」

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第3話「挙兵は慎重に」38:40あたり


『吾妻鏡』では、相模国の武士の勢力を分析して頼朝に伝えているのは家人の安達盛長(演:野添義弘)となっています。

まぁ、このドラマは義時が主人公なので、演出したのでしょうね。
だって、この時、義時くんはまだ17歳ですよ?(汗)

次の第4話では、いよいよ頼朝の挙兵……になるのかな?


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