日本人が忘れてはならないもう1つの終戦(宮城事件)
毎年8月15日は「終戦の日」となっております。
日本各地で様々な式典が行われ、太平洋戦争で亡くなった人々を悼み、交戦権を持たない国として「二度と戦争を起こさない」ことを改めて思い、考える日です。
厳密に言えば、太平洋戦争が終結したのは、東京湾上のアメリカ海軍の戦艦ミズーリの甲板上において、日本国全権大使(重光葵外務大臣と梅津美治郎陸軍参謀総長)が降伏文書に調印した1945年(昭和二十年)9月2日を指します。
では、なぜ、8月15日が終戦の日と呼ばれるのでしょうか?
それはこの日が、「天皇陛下(昭和天皇)による終戦の玉音放送が流された日」であるからです。
1945年(昭和二十年)8月15日正午、当時の日本で唯一の放送局だった社団法人日本放送協会(現:NHKラジオ第1放送)から、昭和天皇による終戦の詔書の音読放送がなされ、日本国民が初めて天皇の肉声を聞いた日であります。
しかし、この玉音放送は様々の立場の人間の思いが複雑に絡み合い、血を流した末にたどり着いた太平洋戦争の結末でした。
今日はその当時の8月15日の玉音放送前に起きた「宮城事件」についてお話をしたいと思います。
ポツダム宣言(無条件降伏)受諾の背景
西暦1939年(昭和十四年)9月1日に起きた、ドイツのポーランド侵攻に始まった第二次世界大戦は、ドイツ、イタリア、日本の三国(通称:枢軸国)とイギリス、アメリカ、中華民国の三国(通称:連合国)の間に広がって、西暦1941年(昭和十六年)12月8日未明、日本海軍がアメリカ合衆国ハワイ州オアフ島真珠湾を攻撃したことで、日米の間の太平洋戦争が始まりました。
戦争は1943年時点で連合国軍が優勢に進めており、同年、枢軸国の1つであるイタリアが連合国に降伏。西暦1945年(昭和二十年)5月7日、ドイツが連合国軍に降伏し、残る枢軸国は日本のみになっていました。
同年7月26日、連合国軍であるアメリカ合衆国大統領(ハリー・S・トルーマン)、イギリス首相(ウィンストン・チャーチル)、中華民国主席(蒋介石)3氏は、大日本帝国に対して「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13か条から成る宣言、いわゆる「ポツダム宣言」を出し、日本に無条件降伏を迫りました。
このポツダム宣言について、当時の日本の首相・鈴木貫太郎は「ノーコメント」とし、態度を明らかにしなかったのですが、マスコミはこれを「黙殺」と報じ、海外通信社に至っては「Reject(拒否)」と伝えたため、日本は国際的に完全に孤立化してしまいます。
態度を明らかにしない日本に対し、アメリカ合衆国のトルーマン大統領は、当初の予定通り、同年8月6日の広島への原爆投下、9日、長崎への原爆投下を実施しました。
また8日は、ソビエト連邦(現:ロシア連邦)のヴャチェスラフ・モロトフ外務大臣が日本の佐藤尚武駐ソ連大使に日ソ中立宣言の破棄を通達。翌日9日未明にはソビエト連邦が日本へ宣戦布告したことから、日本は中国、アメリカ、東南アジアを植民地支配しているフランス、オランダに加え、ソビエトが新たに敵として加わりました。
当時の日本は日ソ中立宣言に基づいて、ソビエト連邦を仲介者に講和成立に向けて動いていただけに、完全にその道が絶たれ、同時にこれ以上の戦局維持がほぼ不可能となってしまいました。
8月9日、宮中において、最高戦争指導会議が開かれ、ポツダム宣言の受諾についての議論が行われました。
会議は外務大臣・東郷茂徳が主張する「天皇の地位保証(国体護持)の1条件付きの降伏受諾案」と、陸軍大臣・阿南惟幾が主張する「天皇の地位の保証、武装解除の日本側実施、東京を占領対象から除外、戦犯は日本側で処罰の4条件月の降伏受諾案」の2つに集約され、東郷案支持3名。阿南案支持が3名という平行線でした。
首相・鈴木貫太郎は議論は平行線のため、天皇臨席による御前会議の席上で、首相から天皇陛下に「聖断」を要請することを主張し、天皇陛下は東郷外務大臣の意見に賛成したため、翌10日未明、ポツダム宣言(すなわち無条件降伏)の受諾が決定されました。
陸軍省の動き
ポツダム宣言受諾という御前会議での決定を知らされた陸軍省では、本土による徹底抗戦となると見込んでいた決定が180度覆ったため、多数の陸軍将校から激しい反発が起きました。なぜなら、ポツダム宣言には「全日本軍の無条件降伏」という項目があり、大日本帝國陸軍及び海軍は組織解体の危機に陥る可能性があったからです。
8月10日午前9時、陸軍省で開かれた会議において、陸軍幕僚の中には「終戦阻止のために阿南陸相が辞任して内閣が総辞職すべき」という意見が出ました。
当時の日本は軍部大臣(陸軍大臣・海軍大臣)の補任については現役武官の大将・中将でしか慣れないという「軍部大臣現役武官制」という制度があり、軍部大臣が内閣に不満があれば辞任し、軍部が後任の大臣を出さなければ、内閣は閣内不一致で総辞職しなければならないという、現代ではなんとも理解できない制度がありました。
つまり、陸軍大臣である阿南が辞職すれば、陸軍は後任の陸軍大臣を出すことを固辞できるので、終戦を行おうとする鈴木内閣を総辞職に追い込めるということです。
しかし、阿南はこの幕僚に対し
「御前会議の決定は天皇陛下の御聖断である。陛下の御聖断に不服の者は、まずこの阿南を斬れ」
と言って、ひるませたと言われます。
ポツダム宣言の受諾
8月12日午前0時過ぎ、サンフランシスコ放送は、日本のポツダム宣言受諾(東郷案)に対する連合国の回答文を放送しました。この中で、東郷案に示されていた「日本政府による国体護持の要請」については、
「天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国最高司令官(のちのマッカーサー)に従うものとする」
と回答されていたため、日本国内では「これでは天皇の主権が保持されない」と解釈されてしまいます。
外務省はこの文章を「制限の下に置かれる」と訳し、予定通り終戦を進めようとしたのに対して、陸軍では「これは、天皇陛下が連合国最高司令官に隷属するものだ」であると解釈し、「やはり本土決戦!戦争続行!」を唱える声が多勢を占めました。
翌13日午前9時、最高戦争指導会議が開催され、ポツダム宣言の回答文について議論が紛糾。
阿南陸相をはじめ、松坂広政(司法大臣)、安倍源基(内務大臣)らは「国体護持について明確な返答をするよう連合国に再照会すべき」として受諾反対が唱えられました。しかし東郷外相は、会議前の同日未明に駐スウェーデン公使である岡本季正から「あれは日本側の申し入れを受け入れたものである」という報告を受けており、同日15時の閣議においてポツダム宣言の回答文の受諾方針が決定されます。
兵力使用計画
閣議後、陸相官邸に戻った阿南は荒尾興功大佐(陸軍軍事課長)以下5名の陸軍将校の面会を受けます。その時、彼らが阿南に提示したのは「兵力使用計画」と題された軍事クーデター案でした。
この計画に記されていたのは、終戦を進めている主犯を鈴木貫太郎(総理大臣)、木戸幸一(内大臣)、東郷重徳(外務大臣)、米内光政(海軍大臣)とし、東部方面軍及び近衛第一師団を用いて皇居を包囲して、内閣と天皇陛下を隔離し、政府要人を逮捕して戒厳令を発布。天皇陛下による国体護持を連合国側が承認するまで断固戦争継続を求めるものでした。
阿南はこの計画について「とりあえず参謀総長と相談をする時間をくれ、その上で決心を伝える」と返答し、一旦一同を解散させました。
この時の阿南は相当疲れていたのだと思われます。
またこのクーデター計画についてもその意図はわかるとしても、そんなことで戦争継続したところで、日本に未来はないことが阿南にはわかっていたのではないかと思います。
8月14日午前7時、陸軍省で阿南と梅津美治郎(参謀総長)との会談が行われました。この会談で阿南は「実はこんな計画があるんだが」と「兵力使用計画」のことを梅津に告げると
「アホか。陛下の大命は下った。それを武力を以って覆そうとか帝國軍人の風上にもおけん!」
と烈火のごとく激怒し、阿南も「全くその通り」と賛同しました。
阿南の心中は
「だが、その帝國軍人だからこそ、陛下のお立場を何としても守りたいというその心構えは見上げたもののではないか」
という思いもあったのかもしれません。
また、この頃、陸軍軍務課員・竹下正彦中佐(阿南の義弟/陸軍軍務課)と同課員畑中健二少佐は、新たなクーデター計画案「兵力使用第二案」を練っていました。
14日正午過ぎ、阿南は首相官邸閣議室において竹下らから陸相辞任による内閣総辞職、さらに再度クーデター計画「兵力使用第二案」への同意を求められましたが、阿南はこれを拒否しました。
この時点で、竹下らクーデター賛同派は独力で決起することを決意したと見られます。
一方で鈴木首相も「陸軍がこのまま納得するはずがない」と読んでおり、天皇出席の上での御前会議開催を思い付き、全閣僚および軍民の要人数名を加えた会議を招集。
その会議において、鈴木首相は再度天皇陛下に「聖断」を要請し、天皇陛下は連合国の回答を受諾しました。
また、この会議で天皇陛下は「国内の動揺を抑えるため自分自身の肉声で国民へ語りかける形を取っても良い」と述べられており、これがレコード盤に陛下の肉声を録音してラジオ放送する「玉音放送」につながるのです。
この時、14日の午後11時を回っていました。
クーデター発生
日が変わり8月15日、午前0時過ぎ、玉音放送の録音を終了し皇居を退出しようとしていた下村宏(国務大臣・内閣情報局総裁)と社団法人日本放送協会(現:NHK)職員など数名が、皇居坂下門付近において、佐藤好弘大尉(近衛歩兵第二連隊第三大隊長)により身柄を拘束され、守衛隊司令部の建物内に監禁されました。
同じ頃、陸軍軍務課員・井田正孝陸軍中佐と椎崎二郎陸軍中佐は、近衛第一師団司令部に押しかけました。
近衛第一師団長の森赳陸軍中将は、第二総軍参謀である白石通教陸軍中佐と会談中でしたが、井田・椎崎両名はそこを割って入り、森に自分たちのクーデター計画への参加を求めました。
森は陛下の大命に従わないクーデター計画に否定的な態度を取りましたが「明治神宮を参拝した上で再度決断する」と井田に約束したため、井田はその言葉を信じて師団長室を退出しました。
井田と入れ替わりに師団長室に入ったのは、井田、椎崎と同じ軍務課員の畑中健二陸軍少佐でした。
畑中も井田・椎崎同様に森に決断を促しますが、森は取り合いませんでした。
「埒が開かない」と判断した畑中は、部屋を退出し、航空士官学校の上原重太郎大尉と陸軍通信学校の窪田兼三少佐を引き連れ、再度師団長室に入室。畑中が無言で森師団長を拳銃で撃ち、続いて上原が軍刀で森を斬殺。その場にいた白石も上原と窪田によって斬殺されてしまいます。
この殺害を合図とし、近衛第一師団参謀の古賀秀正陸軍少佐は、畑中が起案したとされる「近作命甲第五八四号」を各部隊に口頭で伝え、近衛歩兵第二連隊に兵力展開を命じます。同じく、玉音放送の実行を防ぐ為に内幸町の放送会館(現:日比谷シティ)へも近衛歩兵第一連隊第一中隊を派遣しています。
一方、皇居内の宮内省では、近衛兵によって電話線が切断されて外界から隔離されていました。また、皇宮警察は強制的に武装解除されました。
坂下門で佐藤に拘束された下村並びに日本放送協会職員らは、玉音放送の録音盤を持っていなかったため、古賀は宮内省内部の捜索を命じました。しかし、録音盤は侍従・徳川義寛(幕末期の尾張藩主・徳川慶勝の孫)の機転で、皇后宮職事務官室の書類入れの軽金庫の書類の中に紛れ込ませていたため、近衛兵たちの手には渡りませんでした。
クーデター鎮圧へ
一方、井田は、森師団長が殺害されたことの報告のため、東部軍管区司令部へ行く水谷一生(近衛第一師団参謀長)に随行し、東部軍管区のクーデター参加を求めましたが、軍管区司令官である田中静壱陸軍大将と第十二方面軍参謀長の高嶋辰彦は既に鎮圧の命令を下していました。
高嶋は午前4時過ぎに近衛第二連隊長の芳賀豊次郎と連絡が取れると、上官である森師団長の殺害と現在の師団命令が畑中による偽造であることを伝えます。
芳賀は師団長殺害と畑中の言動に不審なものを感じていましたが、高島の言葉で不審が確信に変わり、その場にいた椎崎、畑中、古賀らに対し即刻皇居からの退去を命じました。
皇居を追放された畑中は近衛第一師団第一中隊の占領する放送会館へと向かい、大日本帝國陸軍軍人すべての決起の声明の放送を要求しましたが、日本放送協会の職員によって未然に防がれています。
午前5時頃、東部軍管区司令官・田中静壱陸軍大将は数名のみ引き連れ、自ら近衛第一師団司令部へと向かい、偽造命令に従い部隊を展開させようとしていた近衛歩兵連隊の一連の行動を停止させました。
そして同じ頃、陸相官邸では阿南陸相が切腹していました。
介錯を拒み、2時間後の午前7時頃、息絶えたと言われます。
クーデターは粛々と鎮圧に向けて動いていましたが、陸軍軍務課員・竹下正彦中佐は陸軍大臣印を用いて大臣命令を偽造しようとしていました。しかし、井田はもうこれが無駄であることがわかっていました。井田にはクーデターが失敗であることがすでにわかっていたのかもしれません。
田中静壱陸軍大将は近衛第一師団の兵すべてを自らの指揮下に収めると、御文庫と宮内省へ向かい反乱の鎮圧を伝達しています。
午前8時頃、近衛歩兵第二連隊の兵士が皇居から撤収。
宮内省に保管されていた2枚の録音盤は皇后宮職事務室から運び出され、正盤は放送会館へ、副盤は第一生命館に設けられていた予備スタジオへと無事に運搬されました。
最後まで抗戦を諦めきれなかった椎崎と畑中は、皇居周辺でビラを撒き決起を呼び掛けましたが、玉音放送が始まる1時間前の午前11時過ぎに二重橋と坂下門の間の芝生上で自殺しました。
また、近衛第一師団参謀だった古賀は、玉音放送の放送中、近衛第一師団司令部二階の森師団長の遺骸の前で拳銃と軍刀を用い自殺しています。
そして15日正午過ぎ、ラジオから内閣情報局の下村総裁による予告と君が代が流れた後に、天皇陛下の肉声による放送(玉音放送)が無事行われたのです。
まとめ
上記の事件は、歴史用語で「宮城事件」と言われています。
この事件は「日本でいちばん長い日」というタイトルで小説化されており、ドラマ・映画化された事件です。
太平洋戦争の終戦において、終戦、抗戦、それぞれが自分の信ずるところの道を進み、最終的に血が流れる事件になったのは痛々しいことですが、この後の昭和、平成という時代は、これらの礎があった上に成り立っていることを、忘れてはならないと思います。
阿南陸相が切腹をしたのはいろいろ諸説があります。
ですが、阿南が陸軍を抑えていてくれたから、鈴木首相の終戦工作は成功したとも言えます。
阿南は終戦の詔書にサインをした後、鈴木首相の元を訪れ
「終戦についての議が起こりまして以来、自分は陸軍を代表して強硬な意見ばかりを言い、本来お助けしなければいけない総理に対してご迷惑をおかけしてしまいました。ここに謹んでお詫びを申し上げます。自分の真意は皇室と国体のためを思ってのことで他意はありませんでしたことをご理解ください」
と述べたそうです。
それを受けて鈴木首相はにっこり笑って
「それは最初からわかっていました。私は貴方の真摯な意見に深く感謝しております。しかし阿南さん、陛下と日本の国体は安泰であり、私は日本の未来を悲観はしておりません」
と答えると、阿南は
「私もそう思います。日本はかならず復興するでしょう」
と言って、愛煙家の鈴木に、南方の第一線から届いたという珍しい葉巻を手渡してその場を去ったと言われています。
鈴木は阿南の後ろ姿を見送りながら
「阿南君は、暇乞いに来たんだね......」
と寂しそうにつぶやいたそうです。
阿南のこの態度は鈴木に対してだけでなく、ポツダム宣言受諾において、激しくやりあった外務大臣の東郷に対しても「色々と御世話になりました」と礼を述べていたそうです。
阿南が割腹自殺をしたと聞いた東郷は「そうか、腹を切ったのか.......阿南というのは本当にいい男だったな」と涙ながら語ったと言われます。
8月15日の玉音放送が終わると、終戦に伴う臨時閣議が開催されました。その場で鈴木から阿南陸相の死と遺書が公表されました。
「一死以て大罪を謝し奉る 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 花押 神州不滅を確信しつつ」(遺書)
「大君の 深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすへき 片言もなし」(辞世)
我々の今の日本の平和はこの方々によって得られているものであると、きちんと後世に語り継がねばならないと思います。
それが我々の義務だと。