見出し画像

列島日本の自我

おそらく古来、列島日本(+スピノザ)においては、もともと人間には自己の内部に神から与えられた優れた能力と徳が備わっており、それを潜在させたままに生涯を終えるか、それを顕在化させるかの違いは、自分を取り巻く環境に大きく左右され、仮に神から与えられた能力を顕在化させることができたとすれば、それは環境、多くの場合、自分が関わった人々のお蔭様だ、感謝、感謝となる。自己愛と他者愛が正の相関関係に立つことになる。偉人であること、深い智慧を保持していることと、ナチュラルで近しい感覚、ということとはかくして本邦では一致する傾向にある。

これに対して、もともと罪深く徳も能力もない自分達人間の中から、神によって選ばれ、神の恩寵によって、その栄光を享受することが生きる目的とされ、隣人に対する愛も、あくまで神の命令に従い行う、というのが唯一絶対神(及びこれと同義の”天”)を信じる人々の考えなのかもしれない。そうした場合、もともと罪深く徳も能力もないままにいる他の人とは違って、その特別の能力と徳ゆえに神(天)に選ばれ、その栄光に浴する自分が、特別な存在と感じるし、またそのことを自己確認するためにも、一般の人々とは異なった姿勢や装い、生活スタイルを保持する(違いを強調する)ことになる。かくして、西洋では、偉人であるとされる人々が、スーパーヒーロとして、遠い憧れの近寄り難い感じを与えがちとなるのではないか。

これは、どちらが良い、どちらが悪いという話ではなく、あくまで上記の疑問についての、僕なりの論理的な説明を試みた、というにすぎない。

戦後リベラル系アカデミズム、ジャーナリズムは、概して、”自我が曖昧”ではっきりしないダメな日本人を、欧米的教養と”明晰”な頭脳を持つ自分たちにとっての啓蒙対象と見がちであったが、そこには社会科学的な認識としての根本的な勘違いがある思う。

近代哲学とその基礎の上に成立する近代の社会科学は、マックス・ウエーバーなどの少数の例外を除いて、概ね”神”をその言説から排除してきた。しかし、神を信じることと、神を学問的に論じることは、全く異なることである。科学的で合理的な思考というものが、ある種の客観的な基準によって成立すると考えられるが、ではその基準の客観性を担保するものは何か、さらにその担保物の客観性は・・・という無限ループ的な問題状況が生まれる。

いずれにせよ、原理的に見て、社会と個人というものの存在と認識は、その内的及び外的環境=自然(スピノザの意味における神)との関係の認識において初めて成立可能性なのである。そしてこの問題は、”自由意思”(が交錯する社会)と言う近代的な法学的空間が成立するためのアルケー的な原理に関わっており、近現代の共同体思想が、概ね全自由意思の抑圧の温床となった理由、そしてその反省の下に、21世紀の新たな共同体(コモンズ)をどのように形成してゆくのか、という問いに繋がる。

近代という時代が、そっくりそのままある種の宗教に支えられて成立していたのではないかという疑い(その善悪はここでは問わない)も生じてきている今日、神の問題を抜きに社会科学を論じることはできないと言わざるを得ない。

おそらくは比較文化論の分野では、この問いについての、様々な回答の試みがなされているだろうし、おそらく僕は、宗教や信仰についての何か根本的な思い違いをしているかもしれない。

だが、少なくとも法学や政治学の分野で、この政治や法にも絡んで来る社会関係と生活スタイルについての問いにちゃんと答えてくれる論文、エッセイは読んだことがない。ということで、徒手空拳的で身の程知らずの、他学問分野への侵入は続くことになる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?