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日本文学史 #2 初期文学

第一回は日本文学の特徴について説明した。今回、第二回では「万葉集」が成立した時代前後とその背景について説明したいと思う。前回の記事は下記のリンクから飛べる。

『十七条憲法』と『懐風藻』まで

文献により遡る限り日本文学の歴史は七・八世紀に始まった。その時の日本は天皇家が他の有力氏族に対して、内乱と抗争を繰り返しながら次第に権力を独占していった時期であった。その後、律令制の範を大陸に求めた支配層は、その観念的な支えも同様に大陸に求めた。聖徳太子の作とされている『十七条の憲法』がそのことを顕著に表している。『十七条の憲法』の中では既に個人にとっての最高の価値の一つが集団内部での調和であることが意識され述べられている。大化改新は、地域社会の中央集権的な再編成を目的としていたから、中央官僚と伝統的な地域社会との間には、緊張感があった。『十七条の憲法』での「和」の強調は外来思想ばかりではなく、そのような現実をも反映していたのである。

統一国家の成立は首都の建設及び国史の編成を意味していた。七世紀に飛鳥地方に住んでいた王権は、八世紀のはじめには長安に倣って平城京を作った。平城京は商業の発達の結果市場として成立した都市ではなく、律令制権力の城下町であった。その同じ権力が、遷都(七一〇)の後10年間に『古事記』(七一二)を作り『日本書紀』(七二〇)を完成したのである。『古事記』は日本語文脈を混えた変体の漢文により、『書記』は中国の史書・文書に倣った漢文で書かれいずれも皇室の祖先を神格化した部分と歴代の天皇の系統と治世を叙述した部分からなり編年体の体裁を整えている。編成の準備は七世紀後半に始まっていた。

六世紀に伝来したとされる仏教はこの時代になると貴族支配層の文化の中心になっていった。然しながら同時代の文学が美術と比較できるほど仏教的ではなかった。なぜ同じ時代に一方に大仏があり、他方には『万葉集』があったのか。おそらく外来の仏教が「上」で採用され「下」には未だ広く浸透していなかったからであり、同じ貴族支配層の中でも、外国語による抽象的な思考は仏教化され、日本語による感情生活の機微は仏教と係りのないところで営まれていたからと考えられる。芸術的表現の側面から見ると大仏に典型的な天平美術が主として帰化人の仕事であったと考えるとその説明になる。

『懐風藻』(七五一)は『万葉集』に先立つこと三〇年、日本最初の抒情詩集で、漢詩一二〇篇を集めていた。詩人は天皇、皇族、貴族、僧侶、帰化人などであって『万葉集』と時代が重なる。『万葉集』と比べて恋の詩がわずか二首ということも著しい特徴である。

『古事記』および『日本書紀』

『古事記』は徳川時代に国学の興るまで広く読まれる事がなかった。『日本書紀』はその後も編年体の宮廷の記録に引き継がれ、正史として尊重された。現代の歴史学者は『記』が語らず『紀』が詳述する七世紀相当の記事を歴史資料として高く評価する。然し、文学的作品としてのまとまりがあり思想的にも興味が深いのは『記』・『紀』の双方について主として神代と伝説的な王の時代の叙述である。土着の大衆文化の素材のまとめ方、あるいはその全体の叙述のし方も、単純に大陸の風に倣ったのではなく、話の語り口そのものに土着の精神の構造が現れている。『記』・『紀』の素材が集められた時すでに土着の信仰・伝説と化していた話の内容が、北方型・南方型を含む複雑な合成体であったらしいということは確かである。素材の独自性はなかった。然し多くの地方的な素材を総合して一種の神話体系を作り出したということに、日本の古代の特徴があった。

民話と民謡

『風土記』そして所謂「古代歌謡」は奈良朝以前の大衆が何を信じどういう感情生活を送っているか、ということを考える重要な資料になる。『風土記』は八世紀の前半に中央政府の命令(七一三)によって編成された全国の地方詩で支那語書かれ、各地方とその由来、産物と耕作地の状態、古老相伝の「旧聞異事」を内容としていた。地方信仰は『記』・『紀』のいわゆる「神話」と違って『風土記』の中では組織化されていない。

『万葉集』について

『万葉集』二〇巻は日本の抒情詩集最大のものでまた現存する最古の歌集である。成立した時期はおそらく八世紀の後半とされている。『万葉集』には女流歌人が多い。叙情詩の作者にこれほど女の多かった時代は古今東西に例が少ない。日本の女流文学は『源氏物語』ではなく『万葉集』から始まっていた。女流作家が消えていったのは十三世紀以来の武士支配階級の倫理感からである。

#2 了 #3は最初の転換期

上記の文章はちくま学芸文庫より出版されている加藤周一による『日本文学史序説 上』の「『万葉集』の時代」に相当する。さらなる詳細は本書で。




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