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日本文学史 #3 最初の転換期

第二回は日本の初期文学について説明した。今回は日本文学が迎えた最初の転換期について説明する。詳細は下記のリンクよりどうぞ。

大陸文化の「日本化」について

八世紀末の平安遷都(七九四)から一〇世紀初頭へかけての凡そ一〇〇年間は、その時までに輸入された大陸文化の「日本化」の時期である。「日本化」の結果は、様々な面でその後の日本の文化に多大な影響を与えた。日本の政治・経済・社会・言語・美学は九世紀に決定された。ある種の傾向の一部はほとんどそのまま平安時代の末まで維持され他の部分は徳川時代まで、また他の部分は今日までそのまま受け継がれてきたのである。その意味で日本国の歴史は奈良朝以前と以後とで大別する事ができるのである。仮名がしきりに用いられるようになったのは九世紀においてである。

思想的には平安時代を通じて圧倒的な影響力を持った仏教の二代宗派、天台宗と真言宗がこの時にに興った。九世紀初頭(八〇四)に遣唐使として遊学した最澄(七六七〜八二二)は翌年帰って天台宗を開いた。最澄とともに入唐した空海(七七四〜八三五)翌々年帰って真言宗を開いた。日本では「国家鎮護」を挙げて天台・真言の二派が起ころうとしていた時大陸では唐の武宗による仏教弾圧が吹き荒れていた。武宗は不老長寿の登仙の法を説いた道士の言により全国の寺院を破棄し仏像を壊し僧尼を帰俗させようとした。中国大陸では一つの思想(道教)がもう一つの思想(仏教)と戦っていた。

九世紀の社会的な特徴の一つは八世紀には孤立していた憶良型の知識人官僚が現れた事である。その一つの型は藤原氏の一派から権力を独占していたために政治的中心に没落した貴族の中から現れた知識人である。その典型は政治的権力の中心から遠ざけられた紀氏より出て『古今集』を編成し、『土佐日記』を書いた紀貫之である。もう一つの型は上流階級の一族からではなく比較的下級の儒家から出て官僚としての高位に昇った人物である。祖父の代から儒家で右大臣となった菅原道真はその典型であろう。貫之は仮名表記を駆使して日本語で書き道真は古典中国語に精通していて漢詩を作った。

美的価値の歴史について。『万葉集』と『古今集』(九〇五)とは歌人の出身階層、歌の分類、形式、語彙、表記法の全てにおいて異なる。『古今集』とその後の勅撰集はほとんど違わない。したがってその背景にあった美的価値も『万葉集』時代から『古今集』時代へかけて大きく変化し一度『古今集』に典型的に現れた美的価値の体系はその後、少なくとも平安朝の末までほとんど変わらなかったと考える事ができる。『古今集』の美学の成立はまさに平安朝美学四〇〇年の歴史の始まりでありその平安朝美学はまた長いだ後世の美的世界に深い影響を及ぼしたのである。日本における最初の文学理論が生み出されたのもこの時代である。すなわち空海の『文鏡秘府論』(八一〇〜二〇)である。

『十住心論』及び『日本霊異記』

晩年の空海はその主著『十住心論』一〇巻(八三〇)を書く。その内容は俗世的な常識から外道各派(インドの非仏教哲学)と仏教各派を通じて真言密教に至るまでそれぞれの立場を主として世界観の存在論的構造において要約し仏道修行の一〇段階として秩序づけた。仏教は渡来して三〇〇年の後日本人の作った観念的建築のもっとも美しいものの一つを生み出すに至った。あるいは日本における体系的精神が『十住心論』の包括性と内在斉合性においてはじめて自己を実現したということもできる。

時代の知識人が大衆と共有した土着世界観は九世紀の仏教受容とどのような関わりがあったかは薬師寺の僧景戒の作った『日本霊異記』で正式名称は『日本国現善悪霊異記』である。題の通り各地の怪異伝説を集めている。

知識人の文学

九世紀初頭に相次いで三度勅撰の詩集が編まれた。『凌雲集』一巻(八一四頃)、『文華秀麗集』三巻(八一八)、及び『経国集』二〇巻(現存六巻、八二七)である。勅撰刺繍の主要な作品は圧倒的に多い数から見ても互いに信仰の厚かった二人の詩人、嵯峨天皇(七八六〜八四二)と空海である。

奈良朝以来政治的に有力な一族であった紀氏は藤原氏の圧力の下で九世紀中期ごろには早くも影響力を失つつあった。没落貴族紀氏の中から学問や芸術に先進するものが輩出し紀長谷雄(八四五〜九一二)は道真に学んで九世紀末の有力な漢詩人となった。その子、淑望は、最初の特選和歌集『古今集』(九〇五)のために支那語の序を作った。紀貫之(?〜九四五)で『古今集』の撰者の一人「真名序」を意訳して日本語の序を作り、土佐守を勤めた(九三一〜三四)後『土佐日記』(九三五)を書いた。

知識人の二つの型を代表していたのは菅原道真と紀貫之である。官界に地位を得るための学芸は支那語の散文であったから、道真は当然、支那語で書いた。不遇の貴族、貫之は官界に関心がなく日本語の新しい表記法であ仮名を利用して母国語の抒情詩に専念した。

紀貫之は『土佐日記』を描いた。旅日記はすでに百年ばかり前、慈覚大師円仁が散文で書いた『入唐求法巡礼行記』があった。それと比べると『土佐日記』の内容ははるかに貧弱である。然し紀貫之は『土佐日記』において円仁や道真の果たさなかったことを行った。その第一は仮名書きの散文であり第二は作者新編の私事をそのまま歌と俳謔を交えて語るという流儀である。その二点において『土佐日記』の先駆的意味合いは大きい。仮名書きの日記は十世紀中頃の『かげろふ日記』、十一世紀初頭の『紫式部日記』『更級日記』、十二世紀の『讃岐典待日記』や『伊勢物語
』ような歌物語、徳川時代の「俳文」にまで発展した。

この時代の先駆的作品は『土佐日記』だけではない。作者不明の仮名書き散文が二つあって、一方は想像世界の豊かさと話の構成の見事さにおいて、他方は場面変化と心理的叙述の洗練においてはるかに『土佐日記』を凌いでいた。『竹取物語』と『伊勢物語』である。前者はその緊密な構成において後者は心理的に微妙な状況の多様性において『土佐日記』を抜いていた。両者の特徴が出会う時、平安時代の散文文学の最高傑作『源氏物語』と『今昔物語』が生まれるのである。

『古今集』の美学

転換期としての九世紀の意味は和歌の領域にまた和歌を通しての美意識の変遷に顕著に現れている。『万葉集』は勅撰集ではなかった。九世紀初頭に作られた三つの勅撰集は漢詩を集めたもので和歌を集めたものではなかった。その後100年間の間に和歌の正当性が確立されて最初の勅撰和歌集である『古今集』が誕生した。『万葉集』と『古今集』との著しい対象の一つは作者の出身階層の違いである。『万葉集』の作者は天皇から東国の農民に至り皇族から微集された兵士に及んでいた。『古今集』の世界は全く閉鎖的に宮廷貴族社会に限定された。貴族の中でも高位の貴族は少なく主要な作者は下級貴族知識人と僧侶と宮廷の女であった。『万葉集』と『古今集』の重大な違いは抒情詩の題材、共通な題材である「恋」の内容、時間に対する態度、感覚的洗練の程度などにある。「日本的季節感」あるいは「日本的自然愛」はここから始まった。「日本的季節感」あるいは「日本的自然愛」から「歌枕」の時代が到来した。「歌枕」こそ自然的環境に対する関心が第一義的に風景そのものに向けられていたのではなくむしろ繰り返し歌に現れたその風景の名前に向けられていたというまさに「日本的」な傾向の集中的表現である。

『古今集』の伝統は平安時代の貴族文化の伝統そのものである。十三世紀初頭に政治的権力の中心が貴族支配層から武士の手に移った時、貴族たちが自己同定の根拠としたのはまさにその文化であった。彼らは『新古今集』(一二〇五)をつくり、「古今伝授」に熱中した。

九世紀が決定した美的感受性の型は平安時代を貫いたばかりではなく貴族支配層の政治的没落の後にも長く生き延び能と連歌を通って歌舞伎や俳謔にまでその影響を及ぼしながら今日に至った。八世紀以前の美学的な類型の影響が今日にまで及ぶものはほとんどない。

#3 了 #4は『源氏物語』と『今昔物語』の時代。

上記の文章はちくま学芸文庫より出版されている加藤周一による『日本文学史序説 上』の「最初の転換期」に相当する。さらなる詳細は本書で。



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