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日本文学史 #7 第三の転換期

前回は室町時代に入る新たな芸術様式が発展した背景を説明した。今回は戦国の世を明けた日本文学に訪れた三度目の転換期について説明したいと思う。前回の記事は下記のリンクよりどうぞ。

西洋への接触

十六世紀の半ばから十七世紀の半ばに至るおよそ百年間は二重の意味で日本史の転換期であった。第一に国際的に西洋の影響が初めて日本に及んだ。漂着したポルトガル人から鉄砲が伝来しその後、イエズス会が日本に於いてのキリスト教普及に挑んだのである。第二に国内的には十三世紀以来分散する傾向の著しかった武士権力がこの時期には逆転して求心的傾向を示すようになった。織田信長の全国統一に始まり豊臣秀吉を経て徳川家康と初期の徳川政権に至る過程は軍事独裁政権が権力を中央に集中していった過程でもある。

初期の徳川政権と知識人

十七世紀以降徳川政権のもとでは世俗化が仏教の制度化とともに徹底する。十七世紀前半に政府は寺院と宮廷の関係を断ちキリスト教の弾圧にぶっこ湯を利用しようとしただけではなく各宗派の末寺を本山の統制下におき全ての人口を地域の末であらに登録させて寺院を中央集権的な行政機関に組み込んだ。他方、徳川時代がその前の時代から受け取った最大の知的遺産は大禅宗寺院で発達していた儒教または儒学、殊更に宋学である。行政機関としての仏教寺院と政治的・倫理的教育の内容としての儒教という組み合わせは既に十七世紀の初め、家康の時代から特徴になろうとしていた。これに対し(当時十七世紀前半)の知識人、主として禅僧と儒者がとった態度には大きく分けて四つの型がある。第一に「御用学者」は武士権力に奉仕した。第二に内乱の時代を経験した武士(個人)を代弁したものがあり、第三に大衆の方へ近づこうとしたものがあった。第四に少数の詩人は隠遁し詩文に遊んだ。このような四つの型に分化したのは身分制社会の階層が分化し始めたからである。十七世紀の初めにはまだ剣を持って戦っていた戦国武士が生きていた。その経験を生かしあるいはその経験に訴えて幾つか剣術の書が現れれる。その中でも完結正確な日本語の散文の殊に水際だっているのが、禅僧沢庵(一五七三〜一六四五)の『不動智神妙録』と二刀流の剣術家、宮本武蔵(一五八四?〜一六四五)の作とされる『五輪書』である。戦国の武士の中からは詩人も出た。代表的なのは石川丈山(一五八三〜一六七二)である。若くして家康近習となり、大坂夏の陣(一六一五)には軍令を破って敵を斬り、その時出家して宋学に転じた。詩人であるためには世間を離れ、退去しなければならない時代であった。職業的な儒者の教養の一つとして支那語の詩を作ることが一般化するのは十七世紀後半以後であり儒者の中で詩作をほとんど本業とする者が多く現れるのは十八世紀以後のことである。

木阿弥光悦とその周辺

芸術家は必ずしも詩人ではなかった。十六世紀末から十七世紀前半にかけて、この国の文化はその最高の表現を明らかに文芸の領域にではなく造形美術の領域に見出した。美術における日本人の真に独創的な仕事の多くはこの時代にに完成したかあるいはここに始まった。木造建築は一方で天守閣を含む城砦の記念碑的な様式を完成し他方で茶室の一見みすぼらしい体裁を極度に洗練した。造園は修学院及び桂の二つの離宮に於いて芸術的な頂点を極める。絵画ではこの時代に俵屋宗達と風俗画の無名の画家たちが平安朝以来の所謂「大和絵」の技法を生かし室町時代以降の大陸絵画の強い影響を離れて新しい造形世界を開いた。宗達たちはその水墨及び濃影における「たらしこみ」の駆使、大胆な抽象化、空間分割の独特の仕方に現れている。屏風の大画面から扇面の細密画まで大きな均質の色面から水墨の微妙なの濃淡まで宗達は鋭く個性的な様式を作り出し十七世紀末の光琳とその後の「琳派」を可能にした。風俗画の画家たちは南蛮船から醍醐の花見まで商家の店舗から湯女まで没中没外の男女を描いてその観察の鋭さとともに綿や色彩の様式的な美に対する無比の敏感さを早くも充実に示していた。版画が現れたのは十七世紀後半だが来るべき浮世絵木版画の独特の世界は十六世紀末から十七世紀初めの無名の画家たちにおいてすでに予告されていたのである。

大衆の涙と笑い

十六世紀末・十七世紀前半の大衆的な文芸の背景には新たに加わった二つの要素がある。その一つは印刷技術であり、もう一つは「廓」である。世紀の交替期には長崎でイエズス会がキリスト教文献を印刷していたし、京都では豊臣秀吉がちょうせんから 輸入したと言われる銅や木の活字印刷が普及しようとしていた。木版に彫る「整版」技術は一六二〇年代に現れて十七世紀後半以後の出版は全て「整版」になる。十七世紀前半には出版社は百人にのぼった。徳川政府は大阪市に散在した遊女を特定の地域に集める政策をとった。その地域が「廓」で京都の島原、大阪の新町、曽根崎新地、江戸の吉原は既に十七世紀前半に栄え、十七世紀後半にはさらに拡大された。

徳川時代は支配層と大衆の分化の分裂から始まり価値における義理と人情や行動における表と裏の二重構造がそこに絡むことになる。転換期は十六世紀後半・十七世紀前半の100年間にあった。所謂「元禄文化」に終わる十七世紀後半にはその全ての結果が現れる。

#7了 #8は江戸時代に入りさらに発展した文学と芸術について説明したいと思う。

上記の文章はちくま学芸文庫より出版されている加藤周一による『日本文学史序説 上』の「第三の転換期」に相当する。さらなる詳細は本書で。



是非、ご支援のほどよろしく👍良い記事書きます。