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日本文学史 #10 第四の転換期 ①

前回は江戸時代の町人の間で進化を遂げた文学を説明した。第十回目の今回は新たな文化西洋が忍び込み大きく転換しようとしている時の日本の文学について説明する。前回の記事は下記のリンクから。

近代への道

第四の転換期は十九世紀である。経済的にはすでに十八世紀後半に著しかった市場の全国化・農産物の商品化・貨幣経済発展の傾向がこの世紀の前半にいよいよ進んだ。その結果オランダの商人、シーボルトも注意したように都会の貧富の差は極端になった。貧農はしばしば一揆に立ち上がって都会の貧困層の「打ちこわし」と呼応していた。十九世紀の前半は「鎖国」の限界が明らかになった時期であり後半は「開国」の影響が国内の社会革命を呼び覚ました時期である。十九世紀のはじめからは西洋帝国主義の東アジアへの働きがけが俄かに強まった。ロシア、英国、オランダ、フランス、米国の戦艦は日本の沿岸の各地に現れ軍事力の圧倒的な優越を示すようになった。

同じ世代の町人社会には少なくとも文学を通してみる限り体制内部の矛盾の増大も西洋帝国主義の脅威もほとんど反映していなかった。彼らが十八世紀から受け継いで発展させた趣味と哲学には大きく分けて三つある。第一に日常生活に即した現実主義。第二に遊里を中心とする快楽主義。第三に豪華な見世物の好み。

詩人たち

十八世紀末に漢詩文の「日本化」が起こってそれが十九世紀前半に引き継がれる。その「日本化」の過程におそらく決定的な役割を果たした詩人が菅茶山(一七四八〜一八二七)である。茶山は彼以前の日本の詩人の大部分のように中国の古典を真似ることを第一の目的とせず眼を自身の周辺世界に注いだ。

鎖国の二世紀の間に古典支那語に慣れた日本の知識人がその言葉で自分自身を自由に表現できるようになったように彼らが詩の領域で最初に行ったことは哲学を去り、政治を避け、空想的主題ではなく、日常的事実に即し、修辞を誇張せず、写生に徹底することであった。そうして詩は日記や俳文の世界に近づく。と、いうよりも日本の土着世界観の一つの表現形式として和文の日記や俳文や「随筆」と並ぶのである。

日常生活の現実主義

町人の文化は農民の生活と地方の文化をほとんど無視していた。十返舎一九の作った主人公、弥次郎兵衛と北八は神田八丁堀の下層町民で東海道からはじめ木曽街道や中山道まで旅を続けて道中さまざまなの風俗や人物に出会うが彼が街道すじから離れて農村の中へ入ることはなく農家の内側の世界に接するということもない。『道中膝栗毛』の最初の八遍は『東海道中膝栗毛』で全体の特徴は全てそこに出ている。第一に全体を貫く話の筋はない。主人公の二人がどの場面でも主役を演じるということを除けば比較的短い各場面が独立した話である。第二に場面は街道筋に限るから宿屋、遊廓、茶店などの話が多い。第三に記述は弥次郎と北八またはその一人と第三者との会話を主とする。他の文は芝居脚本のト書き程度のものに過ぎない。第四に主人公の臆病、無知と虚栄心、人の良さ、女好きなどの性質は適度に誇張されていてさまざまな滑稽な場面を作り出す。

十返舎一九の後に出て滑稽小説の傑作『浮世風呂』と『浮世床』を作ったのは式亭三馬である。彼は古本屋を営みながら100篇以上の通俗小説を書いた。滑稽小説の醍醐味の一つは啖呵である。啖呵は江戸の花であった。個人の漢書は言葉により洋式化され統御され社会化される。地方の人口が東京に集まり江戸弁が崩れ言葉が力を失うと喧嘩は歯切れの良い啖呵ではなく問答無用の暴力によって表現されるようになった。『浮世風呂』と『浮世床』は『膝栗毛』のほとんど触れなかった種類の人物を登場させる。その一つは新内語り、義太夫語りのような「語り」を職業とする芸人たちであり、もう一つは医者や儒者や「宣長教」の女たちのように衒学的な知識人または似非知識人である。

町人の逃避

十九世紀前半に農民一揆や外国戦をどう扱うかは武士権力の責任であって町人たちの問題ではなかった。町人文化は一方で天下の形成に関わりなく身辺の日常生活に実際的な関心を集中するとともに他方ではその日常生活からの脱出を求めていた。すなわち遊里へのまたは途方もない空想的世界への逃避である。遊里を中心とする享楽主義は十八世紀末に「洒落本」と呼ばれる一種の通俗小説の流行を生み出した。その特徴は木版挿絵を多く挿入して一種の絵本の体裁を備えること叙述の形式が会話を主とすること遊廓を舞台とし簡単な話の筋を通して風俗や遊女の紹介を兼ねることなどである。その閉鎖的な小社会の内側には独特の風俗・習慣・言語の様式の複雑な体系が発達していた。ほとんど儀式的なそういう様式の体型に精通した遊び上手が「通」と呼ばれ模範的な遊客とされる。「洒落本」はその「通」の手引きでもあり「通」への讃歌でもあった。代表的な作者は山東京伝(一七六一〜一八一六)である。京伝の洒落本にも享楽から愛情へ、非人格化された性的交渉から人格化された人間関係へ、風俗習慣の詳細から遊女の「まこと」へ要するに「通」の価値から「人情」の価値への移行の傾向が現れようとしていた。その移行を決定的にしたのは為永春水(一七九〇〜一八四三)であった。春水の中国小説の翻案を歴史上の人物に仮託した京伝乃至馬琴風の「読本」であった。しかし大火(一八二九)に会って家を焼かれ浅草寺内に退いてからいわゆる「人情本」の傑作『春色梅児誉美』を作った。その続編ともいうべきものが『春色辰巳園』である。この代表的な二作にみるように「人情本」は「洒落本」のように遊里を舞台とし、比較的少数の人物の会話を叙述の主要な形式とする。しかし「洒落本」と違って一貫した話の筋を追い、長編小説の体裁を備えるとともに主題をその場限りの遊びではなく、男女の恋愛とその感情の起伏に於く。すなわち一種の恋愛心理小説で主人公も「洒落本」の場合のように客と女郎に限らない。『春色梅児誉美』では没落した大家の養子と娘浄瑠璃および深川の芸者の三角関係に通客・遊女・女髪結などがからまる。『春色辰巳園』は丹次郎と二人の芸者の三角関係の話を中心とする。京伝の「洒落本」を弾圧した幕府は春水の「人情本」も弾圧した。滝沢馬琴(一七六七〜一八四八)はその生涯に二百余の娯楽小説を書いた。代表的な長編小説は『椿説弓張月』、『南総里見八犬伝』である。『弓張月』は平安時代末、『保元物語』の伝える源為朝を理想化し京都・九州・伊豆諸島・琉球を舞台に為朝の冒険を書く。『八犬伝』は『水滸伝』をもとに時代を足利時代に移して八人の侍が乱世に活躍して主家に忠節を尽くす話である。

歌舞伎最後の大作者と言われる河竹黙阿弥(一八一六〜九三)は馬琴の小説の要点を舞台に移した。黙阿弥は京伝が死んだ年に日本橋の質屋で生まれた。早くから歌舞伎の世界に入り(一八三五)七七歳で病没するまで実に二百以上の脚本を書いた。その芝居が題材の面で独創的なのは泥棒を主人公にした「白浪物」であろう。代表作は「鼠小僧」「三人吉三廓初買」、「弁天小僧」などである。「白浪物」はなぜ人気を博したのか。その泥棒たちが権威に反抗していたからではなく彼らが市民の日常生活の秩序の外に活動していたからである。

農民たち

後半な大衆の日常生活からの脱出の願望は何よりも「おかげ参り」または「抜け参り」と呼ばれる熱狂的な伊勢参宮の流行に集中的に現れた。無数の老幼男女が突然仕事を投げ出し、家を抜け出し集団参宮に参加する。その規模は時に何百万人に上り数ヶ月続いたこともある。「おかげ参り」の大衆は一揆の農民と異なり指導者や組織を持たず具体的な要求を掲げず武器も持たない。しかしそこには一揆と共通する面も全くなかったわけではない。大阪付近のある村では三十日ばかり踊り回った後、役人に年貢の軽減を要求してその要求の半ばを実現し、またその年の末には団結して商人に対し掛買の支払いを停止したという。「おかげ参り」の六年後におこったのが所謂、「天保の大飢饉」(一八三六)である。飢饉は全国にわたり死者十万人に達した。その状況に対して農民は数百カ村、数万人の参加する大規模な一揆で反応した。その年の秋、甲斐では五万人が武装蜂起して甲府城下に迫り三河では加茂郡の農民、一万人以上が五日間にわたる「うちこわし」に加わった。翌年には大阪で元大阪町奉公所の与力、大塩平八郎(一七九三〜一八三七)が三百人ほどの手勢を率いて反乱した。その反乱は直ちに鎮圧されたものの大阪市街の約五分の一が焼かれたという。

農民の運動は維新直前に再び高まった。すでに一八三〇年の「おかげ参り」も集団的な踊りを伴っていたが、一八六七年には「ええじゃないか」の熱狂的な踊りが名古屋地方に始まって全国に拡がった。行政機能を一時的に麻痺させるほどの規模であった。指導者なく、組織なく、共通の具体的要求なく、「なんでもええじゃないか」と唱いながら何百万人の人間が踊り狂ったのである。

#10了 上記の文章はちくま学芸文庫より出版されている加藤周一による『日本文学史序説 下』の「第四の転換期 上」に相当する。さらなる詳細は本書で。

次回はついに新たな時代の幕開けである。数々の大文豪を輩出した明治時代とはいったいなんなのかを説明していく。


是非、ご支援のほどよろしく👍良い記事書きます。