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日本文学史 #13 第四の転換期 ④

前回は明治時代に活躍して後世に多大なる影響を与えた思想家と文豪について説明した。今回は日本幅広く浸透した文学形式の一つである「自然主義」とその周辺について説明する。前回の記事は下記のリンクより。

「自然主義」の小説家たち<一>

一八七〇年代に地方で生まれ、東京に出て私立大学に学んだ文学者志望の青年の中からいわゆる「自然主義」の小説家たちが輩出した。島崎藤村(一八七二〜一九四三)と正宗白鳥(一八七九〜一九六二)はそれぞれ長野県と岡山県の旧家の出である。国木田独歩(一八七一〜一九〇八)、田山花袋(一八七一〜一九三〇)、徳田秋声(一八七一〜一九四三)、岩野泡鳴(一八七三〜一九二〇)はいずれも地方の没落士族の家に生まれた。東京で彼らを惹きつけたのは西洋である。その言語、思想、文学と直接結びついた組織はプロテスタントの教会であったから彼らの多くは教会に近づいた。プロテスタント教会は西洋に惹かれる人間にとっての窓を意味していただけではない。東京に出てきた青年たちは藤村や白鳥の場には殊にそれぞれの家庭や親類や村から脱出してきたのであり、彼らが改めて明治の官僚機関にj組み込まれぬ限りあらゆる社会から疎外された存在に他ならなかった。その疎外に対する反応には二つがある。自己同定の根拠を当人の内部に求めるか故郷の家族でも国家の権力機構でもなく第三の集団に組み込まれに求めるか。個人の救いを説くキリスト教は何よりも独立の人格の自己同定に根拠を与え得るかのように見えたはずである。現に「自然主義」の小説家の集団には属さなかったが若くして自殺した地方出身の青年詩人、北村透谷(一八六八〜九四)はキリスト教の洗礼を受けながら漠然と没神論的な「内部生命」を論じて藤村や泡鳴に強い影響を与えた。上京して東京の山手に住み人生をいかに生くべきかということを考えていた青年たちを待ち受けていたのは宗教だけではなかった。他方には坪内逍遥とその小説論があった。東京専門学校で英文学を講じていた逍遥の理論は単純で小説の目的が勧善懲悪ではなく「心の中の内幕をば洩す所なく描きいだして周密精緻、人情を灼然として見えしむる」ことにあるとした。逍遥の付け加えたのは例を『源氏物語』に取るばかりではなくシェイクスピアやヴィクトリア朝小説にもとったということである。要するに人間を理想化せず人間の生活や心理をそのままあるがままに描き出せということである。逍遥の弟子、二葉亭四迷はあるがままの描出には口語に近い文章が必要であるとして「円朝の落語」、「式亭三馬の作」、「西洋の文法」を参考にしながら口語で小説『浮雲』を書いた。伝統的な善悪観に反抗して彼ら自身の感情の表現を求めた青年たちにとって小説を勧善懲悪の理想から解放して人情の「自然」の表現手段とする逍遥の説が訴えたのは不思議ではない。小説は人生の「真相」と「無技巧」の散文からなり「真相」とは当人の日常生活の経験をそのままの記録であるという風な考えが若い小説家の間に史上初めて成立した。隠して誰でも小説を書くことのできる時代が始まった。

小説家の経験の内容には2種類あった。一つに彼らが故郷に残してきてその束縛から自己を解き放とうとし、ついに解き放ちえなかったところの大家族の中での生活である。もう一つに文士としての東京の生活である。この方は当人とその妻、女内弟子、芸者、田舎から出てきた親族の男女、同業者などからなる世界であり、その中では貧乏や病気や三角関係や家族の中の紛争というような事件がある。主人公が常に小説家であるのは、作者が自分の経験をそのまま記録するのが人生の「真理」を最も忠実に再現する所以だとする考え方が小説家たちの間に普及していたからである。作者は小説家だから小説の主人公も小説家でなければならないそういう考えは逍遥にはなかった。逍遥の影響から出発した小説家たちは人情をそのあるがままに描きという逍遥の標語を作者の経験した事実をそのまま描けという意味に解釈しそうすることで「自然主義」の文学を作ると称したのである。花袋、藤村、泡鳴、秋声、また独歩や白鳥の書いた小説は西洋の十九世紀の後半に《naturalisme》を説いたゾラの作品と全く違いその理想ともほとんど全く関係ない。ゾラの小説は第一に生物学的方法を踏まえ、第二に広大な社会的視野を備えしたがってその人を主人公とせず、第三に市民社会を対象にする。この第一点は彼の《naturalisme》の特徴だが第二は早くもバルザックの行ったところであり、第三は一般に十八世紀以来の多くの小説家に共通である。然るに藤村や白鳥らの仕事は以上の三点を全く欠く。科学的方法とは何の関係もなく小説の世界は極度に狭く作者身辺の雑事に限られしかも主題は市民社会内部の矛盾ではなく市民社会の未熟に基づく紛争を主としていた。日本の小説家は誤って《naturalisme》という語を翻訳した。フランス語でいう《naturalisme》の《nature》は自然科学の対象としての自然であって、日本語に訳して「自然主義」というとき「自然」のように「あるがままに」、「無作為」、「無技巧」ではないしまた独歩らがその言葉で意味したような「天地自然」、没神論的な「山水」、都会的ならざる「田園的なもの」ではない。花袋の「自然主義」は逍遥の「あるがまま」を大胆にし独歩の「自然主義」は武蔵野の四季である。日本語の「自然主義」という言葉はそういうことを示唆しフランス語の《naturalisme》とは何の関係もない。しかし日本のいわゆる「自然主義」の小説家たちについて言えば彼らがすべて自分自身を主人公にして実際の経験を多かれ少なかれ忠実に再現するということだけ専心そておたのではない。その例外の第一は島崎藤村であり第二は正宗白鳥であった。

有島武郎と永井荷風

  維新後の知識人の第一の世代は明治国家とともに成長した。彼らには国家の形成への参加あるいは少なくとも立ち合いの意識があり権力の中心に近かった場合、中心亜から離れていた場合にも多かれ少なかれ明治の日本と自己を同定する傾向があった。その傾向は一方で徳川時代以来の儒学的教養の中に「修身斉家治国平天下」の理想があったこと他方で彼らの接触した十九世紀の西洋の文化が強く「ナショナリズム」の色彩を帯びていたことによって強められていたことに違いない。しかし同じ世代にも例外がなかったのではない。

例外の第一はいわゆる「自然主義」の小説家たちである。彼らは地方から出て東京の私立大学校に学び文学を志し明治官僚国家の中で立身出世の道を初めから閉ざしていた。その伝統的強要は儒教に薄く徳川時代の町人文化に厚い。例外の第二は有島武郎(一八七八〜一九二三)と永井荷風(一八七九〜一九五八)である。彼らが明治国家のみならずその社会と明白な距離をおき組み込まれを拒否して批判的な立場を貫きしかし徳田秋声等とは違ってその社会的な変革を志す代わりに彼ら自身の自己実現を目的とし信念と原則に従って生きてることに自覚的であったのは三つの条件からである。

第一の条件は明治社会で成功した元武士=官僚の長男であったということ。第二の条件は有島におけるキリスト教、家風における江戸文人の伝統である。第三の条件は有島の場合はおよそ三年半、家風の場合にはほとんど五年に及ぶ西洋での生活の経験である。有島は社会主義へ近づき、家風は日本国内の軍事主義風俗を批判し続けた。しかい二人とも第一次世界大戦以来の日本帝国主義のアジア大陸への膨張政策について発言することはなかった。

有島武郎は多くの文学作品を書いた。その中で衆目の見るところの最も優れているのは小説『或る女』(一九一二)である。十九世紀後半のヨーロッパの小説のように現実主義的な手法で美しく奔放な中産階級の女の生涯を描く。その生涯のない世は主として男との恋愛関係で社会の偏見と偽善に対して自分自身に忠実な生き方を貫こうとした日本の女の戦いと敗北の物語である。「自然主義」小説家たちの描いた主題を男の主人公から女の主人公に移して扱ったと言えるだろうが叙述は例えば島崎藤村の小説よりも遥かによく整理され主人公の性格は遥かに明瞭に描かれている。有島自身は自ら「自然主義」を唱えなかったがヨーロッパの現実主義小説を模範として日本人の書いた小説の中では一番成功した作品の一つである。有島は『或る女』を書いてからしばらくして婦人記者、波多秋子と激しい恋の末軽井沢の別荘で一九二三年心中した。彼は農地開放においても恋愛においても自己を実現した。有島はその個人主義を生き抜いたのである。

永井荷風は生きることではなく書くことに賭けていた。書くことは文化の問題でありその文化は海を隔ててフランスにあったか時代を隔てて江戸にあったか、いずれにしても今此処にその生活と出会い得るところにはなかった。フランスから帰ってあ荷風は直ちに『ふらんす物語』(一九〇九)を発表した。虚実とりまぜ、フランス滞在中の挿話を語って甚だ感傷的な文章である。家風のフランスはもはや政治哲学でもなく法律制度でもなく古い文化に隅々まで浸透された詩的感覚的な風土であった。その文化との対比において東京の一夜漬けの「西洋化」風俗に反発した『日和下駄』のような一連の文章が次に来る。反発と批判の要点はまた鴎外の『普請中』の指摘や漱石の「他発的」近代の「上滑り」の説とほとんど異ならない。しかし鴎外や漱石が「西洋化」を批判しながらその必然性と不可避性を十分に自覚していたのに対し荷風にはそのことへの関心がなかった。その代わりに彼は歴史と社会の大通りから身を退いて裏通りに江戸文化の残映を拾うという彼自身の生き方を明確にしたのである。文明批評としては一面では片手落ちではあるが環境に対する当人の態度としては断固として明確であり妥協がない。一九三〇年代の後半から太平洋戦争にかけて挙国一致軍孤高主義の時代に家風は人との関わりを断ち、墨東の私娼窟に遊んで『濹東綺譚』(一九三七)を書いた。その中に人情の機微は荒廃した中産階級によりもかえって最下層の女たちに残る、という。『濹東綺譚』は荷風文学の頂点であり戦時下の日本に見るべき文学作品として谷崎潤一郎の『細雪』と双璧をなす。太平洋戦争の始まりに荷風は『為永春水』(一九四一)を書き戦争の終わった年には『罹災日録』(一九四七)を書いた。幕末の儒者の伝統をにフランス文学の教養を重ね、三味線の音色にパリの裏通りの匂いを想出しながら永井荷風がやり遂げた事業は近代日本においては稀であったもの、つまり個人主義的な生き方の徹底である。

#13了 上記の文章はちくま学芸文庫より出版されている加藤周一による『日本文学史序説 下』の「第四の転換期 下」の「「自然主義」の小説家たち<一>」〜「有島武郎と永井荷風」に相当する。さらなる詳細は本書で。

次回は工業化する日本について説明する。










是非、ご支援のほどよろしく👍良い記事書きます。