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日本文学史 #8 元禄文化

前回は日本文学史に訪れた三度目の転換期について説明した。第八回目の今回は徳川時代に入り芸術の成熟を迎えた「元禄文化」について説明したいとお思う。前回の記事は下記のリンクからどうぞ。

「元禄文化」について

十七世紀末、元禄時代(一六八八〜一七〇四)を中心として、大都会(大阪、京都、江戸)に栄えた文化を俗に「元禄文化」という。その特徴は何よりも学問文芸の多くの領域に独創的な工夫が相次いで現れたということである。荻生徂徠(一六六六〜一七二八)は中国の古典について実証的な文献学的研究の方法を確立し、新井白石(一六五八〜一七二五)は歴史から言語学まで、政策論から散文まで広汎な知識領域における活動を一身に兼ね備えていたという意味で同時代人ライプニッツと同じように画期的な人物であった。同じ時代に近松門左衛門(一六五三〜一七二四)は竹本義太夫と協力して人形芝居の脚本を文学的に洗練した。また松尾芭蕉(一六四四〜一六九四)とその一派の俳人は俳謔連歌から俳句を独立させて、日本語の抒情詩の新しい形式を発展させ井原西鶴(一六四二〜九三)は町人の日常生活の殊に経済的な面を含めての現実をそのものとして正確に描写し日本のみならず中国や西洋の小説の歴史にも先例を見いだし難い最初の「リアリズム」小説を作った。芸術において宗達の後一〇〇年、尾形光琳(一六五八〜一七一六)が宗達の様式に学びながら宗達の貴族的題材ではなく町人の日常身辺の風物を描き日本の絵画を大陸の強い影響から解放した。「元禄文化」の内容上の特色は第一にそれが徹底して世俗的な文化であったという点。室町時代にすでに進行していた仏教の世俗化は十七世紀の前半にほとんど完了していた。「元禄文化」第二の特色は国内では徳川政権が安定し国外からの挑戦はなく体制の秩序が到底抜き難い与件として受けられていたということ、またまさに社会の枠組みそのものが議論の外にあったということと関連して価値の二重構造がその枠組みの中に発達したということである。面の義理と禁欲的な倫理、裏の人情と感覚的な快楽主義である。

『葉隠』と「曽根崎心中」

「武士道」というものはない「武芸」があるだけだ、と荻生徂徠は言った。戦国の風俗を理想化して「武士道」を唱えることは戦国時代ではなく「元禄文化」の中で十七世紀末から流行し始めた現象である。侍が戦っていた時「武士道」はなかった。世紀の交替期の「武士道」の代表的な文献の一つは『葉隠』である。佐賀藩主、山本常朝(一六五九〜一七一九)の口述を同藩の武士、田代陣基が筆録した。山本の生涯とその時代は例えば宮本武蔵の経験とその背景と大いに異なっていた。真剣勝負を知っていた宮本武蔵は戦国武士の生き残りであり十七世紀初め『五輪書』はいかにして相手を殺すということについての、実際的で技術的な教科書であった。山本常朝は真剣勝負を経験したことがなくまたその必要もない時代に生きていかにして自分を殺すかということ書いた。『五輪書』から『葉隠』への一〇〇年間は武士の心構えが実戦から割腹へ移った過程に他ならない。山本常朝はなぜそれほどまで死を賛美するようになったのか。第一に彼にとって主従関係が貴重でありその主人の死が彼の人生の目的を奪ったからであろう。第二に行政官として彼は適応することができず戦のない時代を憎悪していたのでろう。『葉隠』は偉大な時代錯誤の記念碑であった。それが時代錯誤であったのはおそらくは決して人と戦うこともなく六〇歳まで生きることのできた人間が誰も討死する必要のない時代に空想した討死の栄光だからであり徳川体制が固定した主従関係を「下克上」の戦国時代に投影して作り上げた死の崇高化だからである。その時代錯誤にかかわらず『葉隠』が偉大なのは「私」を捨てて「一味同心」となることを強調し自己の所属する特殊な集団そのものを価値としてその体化なる普遍的な価値もその集団に超越しないとしたからであり、その意味ではまさに典型的な日本の土着思想を代表していたからである。

この時代における死の崇高化は『葉隠』の殉死・煉死・討死に代表されるものだけではなかった。同時代の近松門左衛門の人形浄瑠璃「曽根崎心中」では男女の恋が心中において完成するとされた。「曽根崎心中」型の自殺の賛美は同じ死の崇高化ではあっても、『葉隠』型とは対照的である。『葉隠』型では自殺は「私」の否定の極致であるから、崇高だとされる。「曽根崎心中」型の二重の自殺は私的感情の昂揚の極致でありその意味で「私」の完成であるからこそ崇高なのである。

俳謔について

連歌の形式をとって俳謔諷刺を内容とし、主語・語彙とともに平安貴族趣味を離れて民衆の日常生活に即する傾向は十六世紀に逆行してその専門家を生むに至った。十七世紀に入ると専門家たちはたちまち技巧的となり文献をふまえ暗喩を多用し言葉の奇抜な結び付けを貴んで、謎めいた句を多用するようになった。その代表的な作家が西山宗因(一六〇五〜八二)である。熊本出の元浪人でその一派の作風は「談林風」と呼ばれる。「談林風」の言葉の遊戯を最も徹底させた制度は、おそらく一定時間内に一人でどれほど多く連歌の句を作るかを競う「矢数俳謔」であろう。その名手が大阪の俳謔師、井原西鶴である。「談林風」の言語的曲芸に対して松尾芭蕉(一六四四〜一六九四)は「今晩の床」や「銀が敵」の経済生活ではなく古池や佐渡の荒海や古戦場の夏草を詠んで俳謔に独特の作風を開いた。すなわち「蕉風」である。「蕉風」の特徴は連歌形式の俳謔を単なる言葉の遊戯ではなく抒情詩的表現の道具にしたこと。また、殊に俳謔連歌の最初の句(「発句」)を独立の抒情詩として洗練した(後に「俳句」とよばれる)ことである。後の日本文学に計り知れないほどの影響を及ぼした芭蕉の発句の特徴は第一に自然の発見である。第二に、微妙な感覚的経験を表現するために巧妙に駆使された擬声語と超現実主義的な修辞法である。第三に自分自身に対する皮肉、我が身を笑う痛烈な面である。第四に発句の少なくとも一部分は俳謔連歌の全体を離れてみても全く独詩型抒情詩としての重みを持つということである。その意味で芭蕉は日本語の抒情詩に新しい形式を付け加えた。芭蕉の弟子とされる作家の中で十七世紀末から十八世紀初めにかけて活躍し独特の作風を示したのは、宝井其角(一六六一〜一七〇七)である。江戸の医家に生まれて医を学ばず俳謔師となり芭蕉と違って江戸市井の光景や町人の風俗を写す句に傑作を残した。

町人の理想と現実

十七世紀末の町人、殊に大都会の商人はおそらく二つのことに強い関心を持っていた。性的快楽と金儲けである。。性的快楽には女色と男色があり前者の制度化されたものに遊廓があり後者には歌舞伎の「若衆」との交渉があった。

同時代の日本語散文家として西鶴と並ぶ新井白石が歴史において事実を尊重し事実の合理的な解釈を追求してやまなかったように『好色五人女』や『世間胸算用』の作家は今此処における人間とその社会にそれがどれほど「うとまし」かろうとも限りない好奇心を持っていたからである。白石と西鶴は一方が朱子学の他方が町人と俳謔の語彙を駆使していたけれどもそれぞれの世界の現実を理解しようと望む態度においてすなわち観察者としての資格において共通していたのであり彼らの時代の中で際立っていた。徂徠と近松は言葉を求めた。白石と西鶴は言葉ではなく現実へ向かうことによって無類の散文を書いたのである。

上記の文章はちくま学芸文庫より出版されている加藤周一による『日本文学史序説 上』の「元禄文化」に相当する。さらなる詳細は本書で。

#8および『日本文学史序説 上』了 #9はその続編である『日本文学史序説 下』を用いて「町人の時代」を説明する。



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