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永遠の平和のために 悟りとは何か

序文

先日、日本の近代に生きた哲学者、九鬼 周造によるパリの公演をまとめた『時間論』(岩波文庫)を読んだ。その内容があまりにも僕に色々なものを気付かせてくれたので紹介したい。本記事は九鬼 周造『時間論』を元にしているが僕の考えたこともまとめて書きたいと思う。テーマは『悟りの正体』である。天地の開闢以来人間が追い求めて来た悟りとはこういう事に気づくことではないか、と僕は思った。是非とも最後まで読んで頂いて各々がより良く生きる為の糧になったらと思う。又、九鬼周造の『時間論』も是非読んでもらいたい。

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1.時の認知

この世のあらゆる物は誕生したその瞬間から滅びる定めを与えられている。その事に関して、何人も疑う余地はないだろう。何故、その様な定めを与えられているのか。それは常に流れ続ける”時間”というものが大いに関係している。”時間”は決して戻ることは無い、不可逆という性質を持っている。我々が絶えず認知している”時間”というものは目に見えないのにも関わらず何故認知することができるのか。それは記憶を保つ意志と時を認知する意志があるからである。”過去”は文字通り「過ぎ去ってしまった」ものであり現在には存在していない。”未来”も「未だ来ていない」時間である為、現在には存在しない。”現在”は「現に在る」時間であるが、直ぐに過去に成り果てる瞬間的な時間である。過去というのは我々の記憶の中で幅をきかせて止まっているし未来は我々が予め捕らえている。然し、現在というのは過去や未来と違って幅が存在しない、いうなれば点の様なものである。現在という時間は唯一視覚的に直視できる。

まとめると我々が”今日”を”今日”であると分かるのは過ぎ去った”昨日”を記憶し”明日”を予期するからである。もし”昨日”についての記憶がなく”明日”についての予期がなければ”今日”は”今日”と云えず認識できないのである。時は自らの意志に属する。意志がなければ”昨日”と云う時間も”明日”と云う時間もそして”現在”さへも認識できないのである。故に意志の無い机や椅子には時間を認識すると云う意志がない為時間は存在しない。いずれ朽ち果てる運命にあるのは我々、意志のあるものが意志のないものに意志を向け、時を与えているからである。

2.時間の形

僕は過去は未来に成り得、未来は過去に成り得ると考えた。プラトンが提唱した”大宇宙年”或は”完全年”と云う概念が存在する。プラトンの他にも多くの古代ギリシャの哲学者が似た様な概念を提唱している。”大宇宙年”と云うのは『世界は正確に同じ細部を保ったまま再生する』と云う概念である。再生と破壊を無際限に繰り返しているのである。例を挙げると、今貴方が石に躓いて転んだとする。何十年経って貴方が死んだその瞬間に貴方が生きた世界が破壊されもう一度細部に至るまで同様に再生する。そしてまた貴方は同じ時間に石に躓いて転ぶ。

我々は死滅する時一切の記憶が消え、新しく生まれ出る時に何も知らない状態で同じ人間に同じ運命を定められて生まれてくるのだ。もしも記憶を保持したまま生まれてしまったら前世とは違う行いをしてしまって『世界は正確に同じ細部を保ったまま再生する』と云う”大宇宙年”と相違が出て来てしまうからである。人は記憶を失ってもう一度同じ人生を同じ定めで歩む。このことから時間という形は直線では無く円と考えることができる。始まりに記憶がないまま進んで行き、終わりに始まりから培って来た記憶を全て失う。そしてまた始まりに戻る。円の上で我々はそれを気付く事なく無際限に繰り返しているのである。そう云った思想は西洋だけではなく東洋にも見られる。仏教で云うところの”輪廻”でありヒンドゥー教で云うところの”ブラフマンの車輪”である。

以上のことから僕は過去は未来に成り得、未来は過去に成り得ると考えた所以である。

3.東洋の悟り

僕は死後、違う生命体として生まれ変わることは無いと確信している。意識や形が違う生命体に生まれ変わってしまったら前述した『世界は正確に同じ細部を保ったまま再生する』と云う”大宇宙年”と相違が出て来てしまうからである。然しながら永遠の安寧を得る”涅槃”や”悟り”と云うものは存在すると考える。

仏教に於いては自らの意志の中に諸悪の根源があるとされている。そこから解放される、つまり悟りを開くには意志を否定し続けなくてはいけない。つまり常識的な概念としての時間の否定である。仏教ではその果てに悟りが待っているとされている。

一方、日本の思想たる武士道では真逆のプロセスを経て悟りを開く。武士道は意志の肯定と否定することを否定する事を重要とした思想である。臆する事なく輪廻、言い換えるのであれば決して終わる事の無い円環に立ち向かい幻滅を明瞭に意識する。そして終わりなき継起(連続して起こる事)の中に無限を見出す。それが武士道に於いての悟りの開き方である。

上記のことから悟りを開く方法は二つに分かれる。先ず主知主義的超越的解脱。次に主意主義的内在的解脱である。前者は知性によって時間を否定する事によって悟りを開き後者は生きる為に時間を気にしない事で悟りを開く。双方、プロセスは真逆であれど行き着く先は同じ永遠の安寧であることはお分かり頂けたであろう。

悟りを開くとは川を流れる水の様なものである。流れを気にせず又は流れをないものとし川上から川下へと流れる定めを認める。やがて大海へと着いた時、水は流れから解放され自由を得る。

4.西洋哲学の悟り

ここまでの記事を読んでいた方の中では気づかれた方も多いと思うが西洋哲学と東洋哲学には類似する点が多数存在する。そして輪廻や大宇宙年を合成した様な西洋哲学も存在する。フリードリヒ・ニーチェの”永劫回帰”である。私はその思想に智の実態を見出した。”永劫回帰”と云うのは無限に続くループから逃れるのでは無く、そのループを意識しつつ一時も無駄にせず生を歩むと云う思想である。そのループを認め行動する存在こそニーチェの云う”超人”なのである。

5.時の実態

我々が感じている”時間”と云うものは”意志”があるからである、と前に確認した通りである。”意志”と云うのは我々の中にある。果たして”時間”と云うものは全体に流れているのであろうか、それとも己の中にしか流れておらず他に意志を向けて初めてその対象の時間が流れていると認識できるのであろうか。個々の中で流れ行く時間というものは早くもなるし遅くもなる。そのことは各々方経験則で理解できるであろう。全体に流れる時間は平等であることも言うまでもない。全体を認識しているのは一体誰であろうか。それは己である。己にしか全体を認識することはできないのである。己が存在しなければそもそも意志というものは存在し得ない。故に時間も存在し得ない。己がここにいて初めて認識があり物体があるのである。自らの中で流れている時間は死滅する時まで流れ続ける。一方で他者が死んだ時、他者の中で流れていた時間は止まる。然しながら他者が死に他者の中で流れている時間が止まったとしても死んだことを認めている己の中の時間は止まることなく進み続ける。そのことから僕は時間というものはごく個人的な問題であると考える。

6.この世の正体

我々は全く同様な人生を何度も無際限に繰り返しているという事を”大宇宙年”や”輪廻”そしてそれらから発展した思想である”永劫回帰”で確認した。ではその無限に繰り返しているという計り知れないほどのエネルギーを持っているのは誰であろうか。それはこの世を統べている宇宙である。この世のあらゆる物は無限を求める。そして再生と破壊を永続的に繰り返す今のこの世が完全なる形なのである。ギリギリのバランスで建っている建物の様に何か一つでも手が加わってしまったら直ぐに崩れ去る。この世はその様な繊細さの中で成り立っているのである。故に定めというものは少しでも変えることは出来ないし変えてしまったら全てが本当の無に帰してしまうのである。

前述した通り時間というものは個人の中で流れる。己が消滅した時、己以外もそしてこの世を統べている宇宙をも終わる。そして細部に至るまで同様の宇宙と己とそして己以外が誕生する。宇宙は消滅する時まで膨張を続けている。それは何故か。己が死ぬる最後の刹那まで思考を続けているからである。己は主観、認識、意志を持ち、宇宙は定めを持ち、己以外は個人に感情を与える。そういう訳でこの世はその三つがそれぞれ相互しあって成り立っているというのが結論である。次の様に例えたらわかりやすいであろう。我々の頭上に茫漠と広がり続けているのは脳である。そして己は心臓であり己以外は細胞である。完璧でこれ以上何かが欠けたり増えたりしてしまたら崩れ去るバランスでこの世のあらゆる物は成り立っているのである。

7.悟りの境地

”大宇宙年”や”輪廻”、”永劫回帰”そしてこの世の正体まで今まで解説して来た訳である。ここまで読んできた方の中で来世に期待したいという人間がいるかも知れない。そんな方にとって僕の説は些か不都合であっただろう。然しながらこの世は幸福に成りさへすれば文字通り永遠に幸福を繰り返すことができるのである。全ては宇宙意思によって予め定められた運命であるという事は前述した通りである。

ギリシャ神話にこんな話がある。英雄シシュフォスはゼウスの怒りによって刑罰として巨大な岩石を山頂へと押し上げる様に命じられる。彼が岩石を山頂まで運んだ瞬間、岩石は再び元の場所まで転がり落ちる。彼は再び初めから岩石を転がし始める。それを無限に繰り返すのである。

英雄は神の命令に背く事なく永遠に神のために尽くす。彼は無限に神に忠誠を誓い神のために生きて死にまた生きることができるのである。他者が彼を不幸だと思ったところで幸福というのは主観的見地に依存する。故に彼は決して満足しないことで永遠に道徳的満足を満たそうとすることができるのである。もう少し分かり易く言い換えるのであれば、我々が幼い頃何か目標とするものを買うために必死にお金を貯める。その時、その対象を手に入れたら、ああしよう、こうしよう、と様々な妄想をする。そしていざ手に入れるとその一時は幸福で満たされるが直ぐに飽きてしまう。そして思い返すと、ああしよう、こうしよう、と妄想していた時が一番楽しく幸福であった事に気づく。英雄シシュフォスは決して満足しない事で永遠に満足感を満たそうとすることができるのである。あの達成までに至る形容しがたい幸福を永遠に保持することができるのである。

8.私の結論

我々が如何なる絶望に支配されようともそこには必ず小さな希望や幸福は確かに存在している。希望や幸福を如何なる場所でも見つけることが出来たなら、又定めを定めであると諦念した時、永遠の安息を得るることができる。重要なのはこの世は円環として無際限に繰り返していることを認めることである。然し認めないこともまた個人の定めである。僕個人としては円環の中で生きて死にまた生まれ出ることを認め如何なる時でも小さな幸せを認めたく思う。

如何なる困難が目前に現れたところでそれは宇宙意志の定めであり我々人間にとっては如何しようも無いことである。定めに逆らうことなく身を任せる。そうする事で心に無駄な荒波は立たず如何なる時でも安息を得ることができるのだ。

永遠に同じ人生が繰り返されるのだという事実を認め如何なる場所でも小さな幸福を見つけ心を安寧保つ。それが我々人類が追い求めて来た悟りの正体である。


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