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【トーシツ4】スピリチュアルに看る

 今日はトーシツ(統合失調症)をスピリチュアルの視点からみるということをしてゆきたいと考えます.どうも世間一般に"スピリチュアル"というのは厭われる分野視点のようで,私にとっては結構ふつうだったりするものですから,社会生活上は気をつけなければならない話題なのかなとも今では感じてます.
 一般的に,リアルにおいて見えず知れぬものごとについて語ったり写したりするのはどうもあまりよくないようで,ただそれが許されているのがアートという分野くらいなのかなという気も最近しています.
 さて,トーシツをスピリチュアルにみるということなのですが,一般のトーシツ患者っぽくないところが私にはありますので,一段以上上のこのスピリチュアルな分野視点から,トーシツというものについて以下に述べて参りたいと考えます.(トーシツの医学的説明についてはこちらのWikipediaをご参照ください)

 まず,トーシツ(統合失調症)というのは"権威ある"医学上のその精神障がいとしての命名でして,トーシツのような人あるいは十中八九そうだろうという人はそういう命名がない古代から居たのですし,国や時代によっては,シャーマン(祈祷師)や呪術師として世界各地で,あるいは近代では青森のイタコや沖縄のユタとして活躍していたり色々な呼び方があるようです.もちろん,現代日本社会でシャーマンや呪術師などといった者は少なくとも公的には認められた職業として活躍していないのではないかとは思われます.しかし,中世の日本では時に呪術をつかった陰陽師という国家公務員が居たのですし,やはり科学の発展した"科学信仰"の現代ではトーシツというのはどうも性にあわない時代となったのかも知れません(たとえばむかしでいう呪術医は現代では精神科医でしょう).
 トーシツになると一般的な暮らしが難しくなるのですが,これは本人の内的要因だけではなく二次障害的な社会的疎外やうつ気分などによるもの,あるいは服用している薬などによって起きている部分も否めない気もしています.ただ,現代は精神医学すなわち物質を用いた精神治療をする時代ですから,まさか過去の呪術的な手法によってトーシツを治すなんてことは国は公に認めていないわけです.
 しかし一方にて,そういう古来の治癒方法がトーシツの悪性症状に効かないかといえばそれもまた否という実感を私は抱いておりまして,例えば職業柄にてお清めの塩を携帯していたりするのですが,塩はたしかに魔除けや除霊の効果があるとは実感しております.実際に,肩や背中そして腰などに葬儀や人間関係に疲れたなどの後に振りかけますとサッとその暗くて重い実感が払い除けられるような感覚を覚えることが多いです.昔から盛り塩などが,玄関などに置かれてきたように,やはりそういった古来から伝統的に伝わってきている方法というのには何らかの効果があるのは認めざる負えない部分もあると感じます.

 次に,このような背景の上でキラキラしたピュアなスピリチュアルの視点から私は今回のトーシツについての言説を進めるつもりはないのですが,何らかの有益な情報というものを書き残して参ります.
 ところで,トーシツに限らず何らかの障害を負うことになる人というのは必ず何%かは出てくるものであることは承知ではあるかと考えますが,私の経験やその個人的な研究上でわかっていることは,いわば"魂が古かったり"して人生何周ヵ目のような人は自ら挑戦の意味において,今回の今世の人生において障害を負うことを自らに課すというようなこともどうもある印象です.特にトーシツのような精神障がいについては,いわば人間社会を狭義の意味では卒業してゆくような人たちがどうもなるのではないかとみてます.これはどういうことかといいますと,現代日本や特に先進国での価値観ですと,高学歴で容姿弁舌淡麗で資産も豊富で家庭も・・・というような人物が幸せな人生を送っている人ということになるわけですが,そういう人生はもう終えてしまった人がどうもトーシツのような精神障がいになるのではないかという気がしてます.しかし実際には,そのトーシツになった直後やあるいは人によってはいつまでもその"本人にとってはもう旧い価値観"を拭い去ることができずに,また社会復帰してビジネスや恋愛でブイブイいわせて派手に幸せになって・・・みたいなものを想定して暮らそうとしている人も結構みかけます.私のばあいは,やればそういう暮らしはできないことはないのですが,猛烈なストレスになるといえばわかりやすいでしょうか?例えば,子どもの頃のおもちゃで今更遊んで楽しいのかと言われれば否であるように,いわば自分にとっては旧い価値観でまた暮らそうとすれば既に"飽きてる"がゆえにちっとも面白くもない寧ろ面倒くさいものとして感じられてしまうわけです.ビジネスでいえば実績を上げるとかキャリアアップとか資格の取得とか・・・また恋愛でいえば美容とかモテるコミュニケーションとか果ては彼氏彼女とか・・・そういう一般的な現代社会的価値観というものがなんと言いますか"あぁじゃからしぃ!"というような感じなのであって,私はそういう価値観でもう暮らしたくないなぁというようなわけなのです.
 では,そういった旧い価値観を拭い去りたいなら具体的にどういう新しい価値観を求めて暮らしてゆきたいのと言われますとこれも人によって区々なのかも知れませんが,私の場合というかおそらくその王道というのは"スピリチュアル"に暮らしたいという今回のテーマに繋がってくるわけであります.

 スピリチュアルに暮らす新しい価値観というのは,まぁそういった類のHPやblogを漁ってみればわかるかとは思われますが,例えば瞑想をするとか,ヨガをするとか,哲学に耽るとかその一方で,アートに親しんで自らやってみるとか,酒やたばこそして女(異性)にほんとうの嗜好の意味でハマるとか,そういう甘ったるくて苦いような本能的なようでいて自然で素朴,ときに芳醇なシュガー&スパイス,いやビター&スウィートなという――何言ってるかわからないですけど――文化的な暮らしなのかも知れません.まぁそういう暮らしをしている人というのは,現代社会では少数派なのかもしれないですけども,型にはまってないような贅沢で質素な暮らしというのでしょうか,上手く伝えられないですけども昔からオーストラリア大陸にいらっしゃる先住民族のアボリジニみたいな暮らしをこころの中で愉しむようなものといいますか,うーん難しいです・・・.
 一般によくあるネット上の心理テストなどで"アーティストタイプ"です!みたいな診断が出たらそれは"社会不適合者"の診断のことだよとも言われますがそんな感じでして,スピリチュアルな視点からすると,もうそういう暮らしからは離れて"自分の幸せの赴くままにまたこの社会の上で再び暮らし直す"みたいな人たちなのかなという気がしてます.実際にアカデミックやアーティスティックな業界の人にはこのような人が多く,同時に精神障がいを抱えたそういう人も結構みられる気もしています.例えば大学教授や研究生などにはそういう人が散見される印象がどうもありまして,ひとつにそういう業界だからオープンにできるのでしょうが,やはりそういう暮らしをしようとする人たちに共通して,トーシツやソーウツなどの精神障がいがどうも散見される気がしています.
 スピリチュアルな暮らしといいますと,このように今まで関心が向いていなかった"じぶんのこころ"というものに対して関心が向くようになり,その初めは弱さといいますか,その次はその淀みや卑劣さといいますか,そういうものに気づき安心してゆきながらいわば一種のデトックスのような内的活動を通しながら,どうもそういう障がいは発生してくるのかな,あるいは今まで忌み嫌っていた"孤独(Lonliness)"というものが"孤独(Solitude)"と感じられるようにあるいはそれがときに"孤高(Killer)"の心境になるべく道を歩めるように,いわば一種の表の世界からの退却,隠遁,そして再生にこそそのクリエイティブな営みも現れてゆくのではないかと感じます.

 さいごとなりましたが,何言ってんだコイツという文章を書いてしまいました.どっちにせよ,トーシツというのはおそらく脳に障がいが発生したりする場合もあるのでしょうが,その本質は心理的物理的な障がいではなく,霊的な,スピリチュアルな福音から始まっているものであって,本人はその初めそして場合によっては不定期に辛く苦しいものでしょうが,何らかのそういった大きな力や宿命が働いて起きている神秘的な人生経験のひとつではないかとは考えてます.それを現代精神医学では物質の力でその表面的な症状を緩和鎮静させるわけですけども,この現代社会で許される時や場は少ないかも知れませんが,なるべくその症状をみないようにあるいは隠すようにするのではなく,何らかのすがたかたち――つまりその生まれて来れなかった命のようなものを再び生み出すあるいは創りだすこと――にてアカデミックやアーティスティックな手段あるいはスピリチュアルな手段においてその4せる生を漫喫できたら幸いなのかなとは考えます.

 どうもまとまりのない文章になってしまいましたが,スピリチュアルにトーシツを看るというテーマ通りの文になっていたでしょうか?まぁ簡潔にいえば,一般的に理解や共感をされにくい人生を歩んでゆく段階に入っちゃった社会超越的な人間になってゆくのがトーシツになった人の正統な宿命の道なのかも知れません.無責任なことつぶやいてすみません.

了,25min. 

※本記事の著作権は陽太に帰属します.
yohta.yingyang(at)gmail.com

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