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理想と現実

午前二時。
4階のベランダからは、東京タワーなんて見えやしない。
目に入るのは、向かいのマンションのカーテンくらいだ。
お向かいさんがカーテンを締め切るタイプの人でよかった、と心底思う。
こんなに至近距離じゃ、きっとなんとも言えない雰囲気になりかねない。


「東京の人には気をつけんと」


このアパートに引っ越してきたのはちょうど2年前。
俺は、身の丈に合いすぎた生活をしている。
給料の3分の1で収まる家賃だし、ほとんど外食なんてすることもない。
残業も頼まれたらきちんとこなすし、週末には彼女の家に遊びに行く。
彼女は都内の商社で働くOLで、17時にはぴったり退勤する。
どれもこれも、なんて普通なんだろう。

1畳ほどのベランダで、アメスピを咥えてぼうっとする。
白い煙がモヤモヤと自分にまとわりつく。


「こんなんだっけな、俺」


トントン、と灰を落とすと、大きくふうとため息が出る。
あと何回繰り返せばいいんだろう。
重くのしかかった真っ黒な空を仰いでも、星ひとつすら見えない。


「戻りてえなあ」


俺の実家は広島の小さな港町。
夜の海岸から見える満天の星空が、唯一の自慢だ。
実家まではここから夜行バスで10時間ほどかかるうえ、地元の主要な駅からもかけ離れている。
要は、かなり遠いのだ。
そんなすぐに帰れるような距離じゃない。

あの頃は、1日も早く上京したくて仕方なかった。
大学までは実家から通える距離で過ごしなさい、と両親に強く言われ、かなり上京までに時間がかかってしまった。
それでも今、またあの辺鄙な場所に戻りたいと思ってしまっている自分がいる。


翌朝、また同じ日常を繰り返していた。
いつもの如く上司に罵られ、部下のお世話をして、定時なんてものは存じ上げないほどの帰社時刻。
そしてまた、当たり前のように、ベランダに辿り着くのだ。
ただ、明日は早番ということもあって、珍しく今晩は早々に床についた。

午前五時。
耳元で煩くわめくスマホに飛び起きる。
すぐさま布団に戻ろうとする身体を強引にひっぱり、やっとこさ大きく背伸びをした。
熱い珈琲でも飲んで身体を起こそうとキッチンに向かう。
ふと、何かの視線を感じた。
向かいの部屋から、男性がぼうっとアメスピをふかしている。


「あ、お疲れさまです。えっと、おはようございます、か」

「はじめまして、おはようございます、ですね」

「なんか変ですね。こんな近くにいるのに初めて、ですよね?」

「なんか変な感じしますよね、いつもこんな早いんですか」

「あぁ、そうなんですよ。漫画家やってて、締切に追われてて」

「漫画家さん…カッコいいですね」

「いや、そんなことない、泥臭いばっかりですよ。
あ、そろそろ戻らないと、すんません。じゃあまた」


俺は思い立ったように、そのまま洗面所に直行した。
使い慣れないワックスを髪に塗りたくった。
歯をゴシゴシと強く磨いた。
歯茎からは真っ赤な血が流れている。
俺はリュックを背負って、勢いよくドアを押した。


あぁ、
目前には大きな朝日がそろそろ昇ろうとしている。

不束者ではございますが、私の未来に清き一票をお願いします。 みなさまからいただいた大切なお金は、やる気アップに繋がる書籍購入に…。