トンネルと海
本題までのディテールが良い物語が好きだ。
東京から伊豆に向かう道中はそういう魅力がある。
小田原を過ぎたあたり、海沿いの少し高いところを走る車窓から眺める海で徐々に体感することができる。
年月をかけて海が削り取った複雑な海岸線を沿ってくねくね走る電車が今、地図のどの辺を走っているか―思案していると不意に車両はトンネルに入る。
しばらく暗闇をヘッドライトたよりに進むとまた、まばゆい水平線が目に飛び込んでくる。こちらが急いでスマホを構えてもすぐに雑木林に遮られて思い通りのシャッターチャンスはおとずれない。
そうこうしているうちに、次の駅名のアナウンスがなされるその時まで脳内地図のどのへんにいるのか皆目見当もつかなくなる。
懲りずに再度追跡を試みても、何度目かのトンネルと海のまぶしさを味わうころにはすっかりそんなことどうでもよくなってしまった。
諦めて前のめりになっていた体を深く座席に沈めると、実在する地図と旅の解離がすすみ、「日常」が走ってきた線路とともにはるか後方に置き去りになったことを感じることができる。
ここに座ってビールを飲んでいるのは、ただの旅人なのである(酔った)
そうして、非日常を受け止めた後も電車はトンネルをいくつもつきぬけていくのだが、一つ通るごとに、見えないうす皮が己自身から剥がれていく妙な感じがしてくる。
漠然とした、安らぎ。
論理武装されたカラダと裸の自意識。
例えるならばそんな感じだが、しっくりくる表現が見つからない。
しかし、この奇妙な感覚こそが何度も似たような小旅行に私を駆り立てているようだ。
回数を重ねるごとに「核心」に近づく。
なぜ、こんなに頻繁に旅行することになったのか。
今の段階で明確に説明するのは難しい。
最初はただ多忙なる日常からの逃避行にすぎなかった違いない。
そもそも夫からの提案である場合が多く、行き先も温泉やプールがあり娯楽をお手軽に楽しめる総合施設がほとんどだった。年に1度か2度ある息抜きの旅行。
近頃の旅行はそれらとは少し趣向が異なるように感じる。
子どもを産んで家庭を持って5年が過ぎると、がむしゃらにやってきてたち止まる瞬間がある(それを余裕、と呼んだりするのかもれしないが)。
往々にして、大きな違和感のせいだ。
どうも、忙しすぎる。
子どもを健やかに、将来性のある状態で育てるには収入が大きく左右する。ゆえに共働きをしない選択はできない。
家族の将来のために昼間は賃労働、夜は人間らしい生活を保つために家事労働。
やればやるほど足りないような気がしてしまう。
「普通」に暮らしたいと願うことが自分にはおこがましいのではないか
私にはそれを維持できるほどの能力がないのではないか
怯える。
なににおびえているのか。
生きるために足りない能力とはなにか。
普通じゃない、とはなんなのか。
灰色い街で私を絡めとるこういった焦燥感だが、ビーチに降りたって砂の柔らかさを靴裏に感じながら寄せては返す波間を眺めるとなぜかずいぶんと冷静になれることだけは、確実に感じる。
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