『情熱の風』(1/10編)

 どうともない不安が最近は胸をかすめる。12月の朝は寒い。泰造はカーテンの隙間から指す白い木漏れ日に目をひそめる。「今日も寒いな…」そんなことをぼやきながら、布団にすぐさまくるまる。「あー寒い、寒い…」

 台所からは水が流れる音が聞こえる。どことなく香るインスタトのコーンスープの匂い。騒がしい声が聞こえる。美玖と悠太の声だろう。どこにもある生活音。日常の音。声。

「ほら、早くしたくしなさい!」と美玖は声を張り上げた。「今準備してんだろ!」14歳になる悠太はこの頃反抗期だ。

「なんでいつもぎりぎりなのよ」

「なにが?間に合うでしょ。もういくから」

「だれが朝ごはんつくってると思ってんだよ!!」

「・・・」

悠太はどたどたと玄関に走り、おもいきり玄関を開けた。

「ったく。まいにち、まいにち…」と美玖はつぶやく。美玖は18歳の高校生。2か月後に大学受験を控えている。3年前に母親が亡くなってから、弟の面倒をずっと見てきた。3年間、家族のために朝食を作り続けた。「朝食は抜いちゃだめ」そんな母親に言われた言葉を忘れずにしている。大学は医学部を目指している。

「お父さーん!!おにーちゃん!!」階段に向かって怒鳴っても何も反応はない。弟の悠太が数秒後に出ていった、その残像だけが玄関にあった。「もう…」そっとため息がこぼれる。


 「失礼します…どうも」泰造は校長室に入った。「あの…この前話してた事なんですけど…」七三分けで小柄な校長に話を切り出した。

「まさか、本当にか?」校長はいぶかしい顔で嘆いた。

「かたいんで…もう…」

「何が嫌だった?クラスか…?家庭もあるだろ、大丈夫なのか?」

「申しわけないです。こんな時期に…勝手なのはわかります。でも…」

「でも、なんだ??吹奏楽部はどうする?先生がいなくなったら困る子もいるだろうな」

「部活は副顧問に任せました。彼女は優秀で生徒からも人気です。心配はないですよ…」

「おいおい…何を急いでるのかい?」

「…いや、なにも…何もないですよ。引継ぎなどはしっかり済ませます。二十年ほどお世話になりました。それでは、失礼します。」

 泰造はそそくさと校長室を後にした。西日が差している。教室の机に反射した日の光が泰造には鬱陶しく感じられる。十九年間、教員を勤めた学校とも今日でお別れである。始まりが呆気なかったように、終わりもこんなに呆気ないのか。それでも、泰造の心には迷いはなかった。

 泰造は二十九歳までプロの指揮者として活躍をしていた。国際指揮者コンクールで最高位をもらうほどの逸材。世間は泰造をもてはやしたが、おごり高ぶることは一たびもなかった。ずっと、タクトを振れるものだとは思っていた。それでも業界のスピードは速かった。毎年毎年、秀でた若手が世界で名を挙げる。一番好きだったはずの指揮者という職業はいつしか泰造を一番苦しめるものになっていた。何とも言えない先行きの暗さが泰造を深く苦しめた。

 数年のギャップを経て、私立高校の教師となった。もちろん音楽の教師となったのだが、指揮棒は振らなかった。十九年間はまさに光陰のようだった。まじめな性格もあって、ひたすら生徒と向き合った。その間に多くのものを失ったような気がしている。妻の由美子は三年前に亡くなった。由美子は泰造に不平を漏らすことは一度もなかった。泰造は何もできなかったと感じている。申し訳なさと自分に対するやりきれなさ。今日もそれらを引き連れながらてくてくと学校の廊下を歩く。12月の北海道は身体に応える。

「さむっ…」


 山崎正光、山崎家の長男で二十四歳。転職に失敗して、現在はフリーターである。父譲りの音楽の才能があり、大学時代に結成したバンドはレコード会社に目を付けられることもしばしばあった。しかし、バンドで食べていくことは考えてなかった。母の死を境に、現実をよく考えるようになった。しかし、現在は低飛行。出口のない迷走をしている状態だ。最近、彼女とも別れ、さらに世界の色彩は単調になっていく。同級生はコンサルタントや貿易会社の社員や銀行員となった。正光は彼らを誇りに思っている。輝かしい世界の中でみんなそれぞれに必死になってくらいついている。そこで諦めない人間と諦めてしまった人間。正光にはそれがよく理解できていた。

 正光がバイト先から家に帰ってきたとき、めずらしく家族はみんな揃っているようだった。「あれ、親父、早くない?」泰造の履き古した革靴を見て、ふと独り言を放った。前のドアからリビングの明かりがまぶしい。父、妹、弟の声が聞こえる。

「今日なんかあったけ?」


 

 

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