MMTへの根本的批判は、国内での基軸通貨の信用性がなくなる可能性があるということだ。 個人の存在が通貨になる?
MMTとは、自国通貨建ての国債をいくら中央銀行が買い取っても、財政破綻することはない、という理論だ。つまり、中央銀行が基軸通貨き(円)を発行する唯一の機関なのだから、中央銀行がいくらお金を刷ろうが財政が破綻することはない、ということである。
この理論は理論としては、正しいだろう。というのは、基軸通貨の信用を絶対とする前提においては正しいということだ。
つまり、逆に言うと、基軸通貨への信用がなくなるとこの理論は成り立たなくなる。
現状、その可能性はかなり低いだろうが、長い目でみれば基軸通貨への信用がなくなることもありうるだろう。金本位制度がなくなったのと同様なことが起こるということである。
その可能性とは、新しい価値基準が政府によって決められなくなることを意味するのではないか。つまり、政府に頼らずとも共同体が定めた価値基軸基準を信用するというような「経済体」のようなものができれば、政府は必要なくなる。つまり、その経済体の中で、警察や裁判、社会保障、治安維持が完結するようであれば、そのような経済体においては国家は必要なくなるし、そのような経済体においては基軸通貨は無意味になる。
イメージとしては、宮古島のようなところで、完全に自給自足の生活ができるような経済体で、人々がそこにおける「基軸通貨」に基づいて生活するというような感じだ。かなり、ユートピアなイメージを想像されるが、現実は、完全な監視社会のもとでプライベートが守られているような状態で、人々は円ではなく、その人自身の存在という価値に基づいて生活しているのである。皆の信用を失った人はその人自体の価値が低くなるので、そのような経済体の中では暮らせなくなる。ビットコインのようなブロックチェーンによって人々の価値が証明されていくというような超ハイテク社会がイメージされる。信用があがりその人が大きな価値を生み出していることで、その人自身の通貨的な価値が上がるのである。
以上はあくまで私の妄想の世界だが、実は非現実的なことでもなく、Youtuberや芸能人といった人々がお金に囚われずに生きていけるのは、その発露だと考えている。
MMTからかなり飛躍してしまったが、基軸通貨の信用がなくなるという現実的な可能性は実はそれほど低くはないのではないかと思う。この点について、深く議論していくと、近い将来の通貨の形というのも見えてくるかもしれない。私自身は、人々の存在自体が価値になるといったが、現実的な将来においては、その価値基準と基軸通貨としての円の信用が連動するようなイメージをもっている。つまり、人々は信用を失えば、円に頼るしかなくなるのである。円に頼るしかないひとや円以外のものを価値基準として受け入れない人は、新しい価値基準というものを受け入れないだろう。
MMTに関する結論のようなものを述べるとすると、MMTは政府の信用があればこそ成り立つ理論であり、その信用を失うときというのは、そう遠くもないが近くもないと考えられる。徐々に、しかし確実に、国債の意味も通貨の価値も薄れていく。その点で、MMTは面白い理論だと考えられる。政府の信用がなくならない限り(ハイパーインフレや社会保障の失墜、戦争、税制度の崩壊、経済成長・技術革新の否定、などが起こるまで)ずっと円を刷り続けられる。しかし、政府の信用がなくなりかけたとき、悲劇的なことが起こるだろうとも考えられる。それを見越して、刷りすぎを抑制しようというのが真っ当な考えだろう。ただし、逆に言えば、政府への信用の高まり(コロナでの失業者増加を政府主導で行おうという機運)を考えれば増刷も効果的な手だろう。つまり、自由主義経済が停滞するときには、政府の手で雇用を促進し、政府の手で経済成長・技術革新を目指すのである。
内容がぐちゃついてしまいました。まとまりがないですが、以上としたいと思います。またなにかいいアイデアが思いついたら加筆・修正したいと思います。
私自身の存在に社会的価値が認められるよう日々精進していきたい。
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