見出し画像

ク・ハラ法案は、「制度としての家族」の在り方を社会に問うた。法治国家における家族の在り方と絆。


はじめに


ワイドショー番組『バイキング』で、「ク・ハラ法案」についてのニュースが取り上げられました。「制度としての家族」の在り方や「法治主義」について考えさせられたので、これからの家族の在り方について思うことを書いていきます。


「ク・ハラ法案」とは?


韓国の芸能人ク・ハラさんが自殺したのを機に、育児放棄をし20年間連絡を取っていなかった実母が相続権を主張したのに対して、ク・ハラさんの兄がその相続権は無効だとして訴訟を起こしたことに端を発しました。


相続をめぐる裁判の結論からいうと、お兄さんの主張は認められず、育児放棄をした実母に相続権が認められました。しかし、お兄さんは、育児を放棄した親に子供の財産がいくことを不当に思い、同様の苦しい思いをする人が今後出ないようにということで「ク・ハラ法案」を国会に立法申請しました。


この法案が国会で本会議にかけれられることはなかったのですが、これを機に、育児を放棄した親の相続をどうするかという重大な問題が表面化し、縁組や家族の在り方を見直す必要性が韓国社会に認識されました。また、このような法案が可決されない、というところには法治主義のいい面と悪い面の両方が備わっていると思っています。それについても、以下で考えていきます。


詳しくは、こちらの記事を参考にしました。

ハラさんの死後、約20年前に家を出た実母が現われ、ハラさんが残した財産の半分を要求すると、実兄のク・ホインさんは「親権と養育権を放棄した母には相続資格がない」とし、今年3月に国会に立法申請を提出していた。この申請は10万人の同意を得て法制司法委員会に送られたが、第20代国会の最後の会議である20日の本会議にはかけられず、「ク・ハラ法」の成立はならなかった。https://news.livedoor.com/article/detail/18305639/


「制度としての家族」の在り方について。血縁関係、愛着、憎悪。


育児を放棄し、20年間連絡もつかない母親に対して、息子の相続権が与えられるというのは、それが事実だとすれば倫理的には完全な不条理だと思います。相続の目的は、亡くなった人にとっての大切な人のためでもあり、残された人々の幸せのためでもあるからです。にもかかわらず、関係が希薄で、なおかつ心理的な愛着というよりむしろ憎悪がまさっているような親族に対して亡くなった人の相続が与えられることは、相続の目的に合致していないように思います。


しかし、倫理的な問題は、確かにその不条理性に認められるのですが、より大きな社会的問題として考えると、「制度としての家族の在り方」という問題として捉えられるのではないでしょうか。


どういうことかというと、20年間連絡を取っていないような実母の縁組については、実母が育児を放棄した時点で縁が切られるべきだったのであり、そのような「縁組」や「縁切り」の制度が公的制度として人々に広く認識され、システムとして広範かつ効率的に運用されるべきなのではないか、ということです。

「縁を切る」というと、何か世知辛い話だ、と感じる方もいるかもしれないが、今回のク・ハラさんの件で、家族という制度自体に人々が固執しすぎるべきではない、と認識されつつあるのではないか。DVの被害を受けた人や児童虐待や育児放棄をされた子供たちが、辛い思いを抱えながら縁を保ち続けたり、不条理な相続や扶養、介護をしなければならない、といった問題に我々は他人事として目を背けるべきではないのである。そしてそのような一見世知辛い制度も、愛情にあふれた家庭を否定するわけではない、ということを考えるべきである。このような議論が進むことで、これまでの伝統的な愛情や結束で強く結ばれた家族像というのが失われるわけではない、ということをイメージしていただきたい。のと同時に、むしろそのような議論が、家族の結束の重要性を再認識することにもなると思うのである(このことは後で詳しく述べる)。


もちろん、単に嫌いだからということで簡単に縁を切れるような制度にはすべきではないだろう。しかし、虐待や育児・扶養放棄、負債過多などの客観的な過失がある場合においては、簡便な手続きをもって半強制的に縁が切られるような制度も必要かと考えるところだ。


「法治国家」における家族の在り方


家族とは不思議なものだ。赤の他人が結婚し、家族になり子供が生まれ家族が増えていく。ずっと昔から続いてきた伝統が、今でも法律に基づき公的な集団として認められている。その一方、内的な心のつながりを頼りにした、客観的な監視の届きにくい集団でもあり、国家としてその集団の結束が美徳とすらされているのだ。


家族を公的な集団として考えれば、「脱退」や「加入」が容易にできてもいいだろう。しかし、日本において家族は、神聖で心の繋がりや血縁を重視した運命共同体のように扱われ、簡単に「脱退」や「加入」をすることは、国民道徳としては善いこととはされないのである。


法的な制度としての「脱退」「加入」を容易にすることは、家族の結束を弱めかねないという懸念から推進されては来なかった。しかし、ク・ハラさんの死が我々に示唆したところは、そのような「伝統的な家族像」は根源的な制度的見直しを迫られている、ということだ。


一方、そのような見直しの議論は、運命共同体という家族の本質を再確認することに繋がるのではないかとも考えるのだ。


どういうことか。つまり、このように、愛着の結合としての家族を法的な制度として見直すことは、家族の本質である「運命共同体」としての性質を改めて浮き彫りにするだろう、ということだ。「運命共同体」としても「公的集団」としても議論が希薄だったこの「家族」の問題を見直すことは、どちらの性格をも人々に強く印象付けることになるだろう。


まとめ


我々は、家族という制度を抜本的に見直すべきではないか。「脱退」や「加入」に流動性を持たせ、一方では、その結束を強めることを美徳として再認識する。このような議論が国民的な議論として巻き起こっていくことを期待したい。

家族の絆は深まり、制度として洗練されたものになる。将来の「家族」の形を議論する。ク・ハラさんの死は、その必要性を私たちに訴えかけている。


★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

最後まで読んでいただきありがとうございます!私の考えに少しでも興味を持っていただけましたら、Twitternoteのフォローよろしくお願いいたします!

★私のTwitter→https://twitter.com/sanpitaron

★note→https://note.com/sanpitaron (noteはここ7日間、毎日更新中!)

↓過去のおすすめ記事です!

https://note.com/sanpitaron/n/n497e774038c4

https://note.com/sanpitaron/n/n8eff56de7c57


AI時代に必要な「読解力」を向上させるために有益な記事を書いていきます。よければサポートをお願いいたします! マガジンを複数用意しております。気になる無料マガジンを登録してください! https://note.com/sanpitaron/magazines