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トルコの地震

この前、トルコで大きな地震が起きました。2万人もの方がお亡くなりになっています。最近テレビを全くみていないので、ニュースを見る機会も確実に減っているのですが、それでもその地震のニュースは私のところにすぐに届きました。

“地震”はたとえ当事者ではなくても、胸を痛めたり、いろんな感情を多くの人が持つものであると思います。私もその1人で、東日本大震災、熊本地震でボランティアをしてから、地震がとても身近なものになりました。自然災害のため誰かのせいにして責めることもできず、ましてやいつも遊んでいた馴染みのある海が凶器となって自分達に押し迫ってくる恐怖は計り知れないと思います。

今回の地震で私はあるトルコの友人に連絡をしました。しばらく連絡をとっていませんでしたが、彼の安否が不安になり連絡をしてみました。結局のところ、彼は震源地からかなり離れたところに住んでいたため無事で、彼の家族も皆無事とのことでした。

去年から日本を飛び出し、マルタやデンマークに行ったことで世界中に友達ができました。彼もその1人です。彼はとてもチャーミングで優しくて、みんなから必要とされている子です。

ウクライナの友達もできました。学校で知り合ったその子が自国に帰る時、私は涙でグチャグチャになりながら、ささやくように”Please don’t die…”と彼女に言いました。彼女にはそれがしっかり伝わって、2人で最後にハグをしてお別れをしました。そんな私の言葉なんて、戦争を止めたり、彼女の危機を救ったりできる力は全くないのだけれど、想像を絶する場所に向かっていく彼女に神頼みのような形で、何かを伝えたいと思って出てきた言葉がこれでした。

その子は人間としてとても尊敬できて、すごく素敵な人で、今ここで彼女を失うことは社会にとってマイナスだぞ!と思いましたが、そんな人権が存在しない戦争は、今までもこれからも、こんな大切な人たちの命をただの物として惨虐していってしまうのかと吐き気を覚えました。

戦争と地震は全く違うものだけれど、人権など関係なく人が亡くなってしまう点では同じだと思っています。以前の私は戦争や地震の死者数を見て、被害が大きかったと知るとその死者数に対して心を痛めていました。しかし世界中に友達ができたことで、たとえ遠く離れた場所でもそこにいる子を知っていれば、その子の安否を心配して心を痛めることが多くなったのです。きっとこれは当たり前のことなのでしょうが、起こった事柄は同じなのに、心を痛める対象が変わったことで 多くの死者数=そこにいる友達1人 と、圧倒的な人数の差があるにも関わらずそこがイコールで結ばれるのだと気付きました。

友達が増えればもはやそこはイコールですらなくなり、より一層心を痛めることになるのだろうと思います。これを当事者意識と呼ぶのかはわかりませんが、以前の私がどれだけ当事者意識がなかったのか分かった気がしました。そして、個人個人が輝いて、いろんな人から愛されている個人が集まってできているこの社会で、人権を蔑ろにして行われる戦争や、自然災害がどれほど恐ろしいものかわかった気がしました。

そして、私はできれば世界中の人たちが笑っていてほしいと思うけれど、今トルコやウクライナに行って直接支援をすることはできません。その他の方法ですぐにできる支援といったら、やはりお金で支援することなのです。私は自分好きなものもを買いたいから、というような理由で仕事をしていなかったので、お金を稼ぐことに関してそこまで執着していませんでしたが、仕事をしていない今、支援できる金額がわずかで、人を助けるため、笑顔を届けるためにはお金も必要だと、改めて仕事をしなきゃと思った瞬間でした。

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