見出し画像

Still Alice

先日デンマークから日本へ帰国しましたが、この日記を書いたのは帰国の1週間前です。編集する時間がなく、公開が今になってしまいました。この時はまだデンマークにいるということを前提に読んでいただけたら幸いです。


今日、私の友達と一緒にこの映画を見ました。日本語のタイトルは「アリスのままで」。この映画を見るのは2回目でしたが、詳細をあまり覚えておらず、新鮮な気持ちで見ることができました。
この映画を見ようと思ったのは、私が行ったプレゼンテーションがきっかけでした。私は今、デンマークの学校に滞在しており、それもあと1週間足らずで終わるという段階にいます。そんな中、かなり前からやろうと思い準備を重ねていた、assembryでのプレゼンテーションを今週の月曜日にやっと終えました。


なぜプレゼンテーションをやろうと思ったのかというと、前回の学校で行ったアンケートをもう一度ここでもやりたいと思ったからです。それもより今私が知りたいこと、興味があることに絞ったアンケートをやりたかったのです。

ただ、これが全ての理由ではありませんでした。本当はもっと大きな理由がありました。それは自己表現としてプレゼンテーションを行うということです。
このまま学校滞在中に自分から何も発しなかったり、自己表現をしなければ、周りの友達にとっても自分にとっても、私がデンマークまで来てこの学校でこの子たちと一緒にいた意味がなくなってしまったり、自分の中で振り返ったとき、この期間が無駄だったと思ってしまう気がしたからです。

前回の日記にも書きましたが、今回の学校は言語の壁やデンマーク人との壁が大きく、言語での自己表現やそもそもそれをする機会すらない状況で、この学校にいる意味がわからなくなり、自分自身がどんどん消えていく気がしていました。Minorityとはこういうことかと、情報を遮断されて選択肢を奪われ、ただMajorityに付いていくだけの自分が、まるでそこにいないかのように、いてもいなくても変わらない、もしくはいた方が面倒くさい、とさえ思われていると感じていました。この状況下で自分から行動していくことももちろん重要で、デンマーク語を勉強して話せるようにするとか、毎回翻訳をお願いして自分も一員であることをアピールしていくとか、そういうことでも状況を打破できたのかもしれません。しかし、このときの私にはできていませんでした。


そんな環境を打破するため、自己表現としてプレゼンテーションを行い、皆んなとより深い会話をしたいと思いました。


プレゼンテーションの内容は大きく分けて2つ。私が看護したある2人の患者についてと、私の病気に関することについてです。
その中で、私はこの映画も紹介しました。この映画は、50歳で若年性の認知症と診断されたAliceの人生の物語です。

ここからは映画のネタバレになるので、見たくない人は次の段落を飛ばして読んで下さい。

Aliceは50歳でアルツハイマーになり、短期記憶が失われたり、生活に困難を来し始めた頃、自分の住所や年齢、娘の名前などの質問を毎日答えることで、それを忘れないように努めてきました。そして彼女は、これらの質問が答えられなくなった時の自分に向けて、ビデオを作りました。そのビデオは、自殺の仕方を説明したものでした。結果的に彼女は、自殺を成し遂げることができず、自殺をしようと思っていたことも、自殺の仕方や、自殺という概念すらも忘れてしまい、そんな中で家族とともに毎日を生きていく、という物語でした。


この映画を改めて見てみて、私がプレゼンテーションで取り上げた1人の患者をより鮮明に思い出しました。

私が受け持ったその彼女は、アルツハイマー型認知症で何度も何度も自殺を試みていました。自宅での自殺未遂を3回行い、病院に運ばれてきた彼女をその度に必死で蘇生していました。入院中も自殺を試みる彼女の命を何とか守ろうと必死になっていました。しかしこの映画を見て、もし私が彼女と同じ状況になったら、彼女がしたように自殺を試みるのかもしれないと思いました。

今まで培った友人関係や、職場、様々な知識や、自分が生きる中で大切にしているもの、どんな自分でいたいか、そんな自分自身を司る全ての環境が自分から消えていったとき、残るものはただの身体だけになってしまうと思ったのです。その身体だけになる前に、自殺する道があること自体を忘れる前に、自分自身を終わらせたい、と思ったのです。

私が病院でケアしていた彼女は、自殺を企てる能力がまだありました。それができるうちに、早く死んでしまいたいと思ったのかもしれません。きっと彼女にも壮絶な葛藤と恐怖があったんだと思います。それさえ語らず、ただ死ぬことだけに執着していた彼女に、認知症だから仕方がないよね、などと浅はかな気持ちで接していた自分が本当に愚かだったと改めて思いました。


私は実はこの映画を再び見たあと、今後自分が看護師としてどうしていったら良いのか分からなくなってしまいました。良いケアをして、彼らの彼ららしさを一時的に取り戻すことができたとして、その一瞬の喜びとそれ以外の長い暗闇の時間とを比べたら、生きていて楽しいと思うのだろうかと思いました。自分でさえ、死んでしまいたいと思うその期間を、患者が命を落とさないように守らなくてはならない看護師という立場は、自分が当事者になった場合の願いと、介助者としての使命や責任に基づく行動が矛盾して、ケアの目的やゴールがわからなくなってしまうのではないかと思いました。

医療とは何だろう。元々人を助けるための素晴らしいものだったはずが、生かすことが主な目的となり、必ずしも幸せになれるものではなくなってしまったと思うのです。そしてそこにお金の問題が加わり、命とお金とが天秤で測られるようになりました。こんなことあってはいけないと思うことが、病院では普通に行われていて、そこにショックを受けたことを思い出しました。

私はこのデンマークに患者にとっての幸せとは何かを探しに来ました。この1年間の滞在で、自分にとっての幸せ、人々にとっての幸せを少しだけ理解することができました。しかし、デンマークの滞在を終えようとしているとき、デンマークに来る前に抱えていた大きな問題がこれだったのだと思い出したのでした。

医療とは何か、どうあるべきなのか、生かすことだけを目的としない看護師の働き方とは何か。

このケアは病院ではできない、施設や在宅でならできるかもしれない、と分かった気でいましたが、結局自分が当事者になったときに受けたいケアや、介助者としての病気の捉え方が自分の中ではっきりせず、どんな立場でどんな考え方でどんなケアをすれば良いのかが、デンマーク生活を終えた今ですらまだ暗闇の中なのでした。デンマーク生活で何も得られなかったかというと全くそんなことはなく、本当にたくさんのことを学び、考え、幅広い視野を持って物事を考えられるようになったなぁと思っています。しかし自分が目指すところまで道のりは長く、自分なりの答えを出してそれを形にすることができるのかも不明瞭なままなのでした。

でもやっぱり、認知症ケアへの追及を諦めたくないとも思いました。彼らは苦しんでいる、病気を恥ずかしいと思っている人もいる、忘れたくない、でも忘れてしまう、悔しい、自分が消えてしまう、怖い、情けない、そんな思いを何度も何度も繰り返している彼らを、医療者として一番の理解者でありたいと思いました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?