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山で逝った岳友たち(遭難)①

学習院大学山岳部 昭和31年卒 小谷明

鹿島槍ヶ岳に逝った仲間を忍ぶ会

 昭和60年6月25日午後6時30分から学習院100年記念会館に於いて、「鹿島槍ヶ岳に逝った仲間を忍ぶ会」が輔仁会山岳部と山桜会が主催で執り行われた。 出席者105名。 輔仁会山岳部員故鈴木迪明、鈴木弘二、藤原荘一、清水善之4君の遭難から30周年、30回忌としての会であった。

 実行委員長は山桜会の石川貞昭氏。 式典では、学習院長磯辺忠正、学長木下是雄、元山岳部長岡本通諸先生と捜索隊長の舟橋明賢氏、そして同行者で生還した私、小谷明が挨拶をした。

 どなたも若くして山に召された学友を悼むものであったが、そのなかで、ひと際心魅かれたお話をなされたのは、磯部院長(初めての旧制学習院卒業の院長)であった。 「彼らが山から帰らぬ人となったことは痛恨の極みであるが、彼らが学習院に残してくれたものは、当時の学習院にあっては、かけがえの無い大きなものであった」と。

 遭難発生の昭和31年当時の学習院は、敗戦によってそれまで皇室ご庇護の宮内庁直轄の学校で、皇族、華族を始め爵位ある軍人、財閥家系など上流階級の子弟教育が目的の学校であったものが、敗戦による占領軍の民主化政策の一環として文部省管轄の一般学校になり、それまで初等科から高等科までであったものが、新制度のもとで、初等科から大学まで女子部は短大までの私立学校となって、5年目をむかえる頃であった。

 階級社会が撤廃され、一般家庭の子弟が入学してくることになって、旧制度のもとで初等科から入学していた在校生のなかには、新制度になって入学してきたものとの間に(或いは制度の変革に対して)、素直な融合とはいえない何かを心のどこかに抱いていた。 そうしたことは、在校生のみにとどまらず、父兄や卒業生たちの間にも同様にあった。 それは、旧制度の下では、学生たちの総数も少なく、何処の何方の子弟か、といったことが分かりやすい環境であり、(表現が適切を欠くかもしれないし、安易に断定できないが)、加えて、初等科から高等科までの一貫教育であったから、家族的雰囲気が色濃い集まりであった。

 そのため、それまで抱かれていた学校に対する安心感や誇り、ありいは親近感といったものが揺らいだからなのかもしれない。 また、新入生にあっては、そのような環境のなかに入って伝統の理解も薄弱な新参者も多かった。 新制学習院ににあっては、いかにして新、旧の融和というか、一体感のある愛校心のようなものを育ててゆくことに腐心されていた。

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