山で逝った岳友たち(遭難)②
学習院大学山岳部 昭和31年卒 小谷明
鹿島槍ヶ岳に逝った仲間を忍ぶ会
そのような時代背景の中で、遭難事件は起こった。 当時の新聞記者たちにあっても、最初の質問は、「遭難者のなかに華族や財閥の子弟がいらっしゃいますか」ではじまる時代であった。 遭難者に該当者はいなかったが、遭難発生によって駆けつけてくださった多くの山岳部に係わる先輩方は、明治、大正、昭和の時代にわたる旧制度の卒業生であって、皇族、華族、財閥、軍閥の家系など社会的地位がおありの方々であった。 そうした方々が遥か世代の離れた後輩の学生が遭難したとの一報以来、現地にあっても学校内におかれた対策本部にあっても、昼夜の別なくわが子や兄弟、親族に起こった事件のように、心を痛め献身的にふるまって下さった。 そのさまは、新制度、旧制度といった別なく、係わりあう学生、父兄、教職員などなどに「いい先輩のいらっしゃる学校だ」と大きな感銘を与えた。
学校側にあっては、遭難事件が新聞の一面を埋める大事件として取り上げられるという初めてのことであるため、理事会や教授会など学校当局をはじめ、父母会、桜友会、常磐会などが招集され、対応が検討されたのだろう。
そこにも山岳部に係わりのある先輩たちのお力が発揮されていた。また、遭難対策費用が幾らかかるかも判らない状況のなかにあって、輔仁会山岳部やOBの山桜会だけでは対応できるはずもなかった。 学習院当局は、そうした状況を把握して、幼稚園から大学、院内諸団体までにも動員をかけてくださり、大規模な募金活動を展開して下さった。
それは、天皇家はじめ皇室の方々からのお見舞いや御忍びでのお参りを賜ることになった。
そうしたことが、全校的なコミュニケーションを生み、結果として、全学習院が一体となってのご援助とご声援を戴くことになって表れた。 表現をかえて解さば、「そのことによって、全学習院が一体になれた」と。
それが、磯部院長のお話の要旨であったと私は理解した。 確かに逝った者を悼む気持ちは尊いが、前向きに捉えれば、そうしたことは、確かに彼らでなければ、なし得なかった大事でもあったと思う。 その院長の言葉は、生き残った私にとっては、生涯忘れることのできない感銘となって心の救済となった。
しかし、私は祭壇に向かって「君たちは、私を一人山中に置き去りにしていったのだぞ」と呟いた、とともに、30年前のことどもが思いだされ、事件発生以来、ことあるごとに、彼らの行動について質問を免れることはできなかったが、子細については、口外をひかえてきた。 それは、事件への反省と再発防止に役立つかも知れないが、責任問題への追求に誘導したいむきもあろうからのことで、今後も口外することはないと心の中でかれらに語りかけるのであった。
申し遅れたが、私が生還できたのは、テントキーパーとして幕営地に残ったからだが、テントの埋没を降雪から守れたことと、薄情だがかれらの未帰還にうろたえ、単独で彼らを探さなかったからだ。 しかし、生還という重い荷物は生涯消えることはない。
「山で逝った岳友たち(遭難)①」から
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