
大きな主語にも意味はあると思う
主語の大きい話、抽象的な話が昔は嫌いでした。「男は〇〇」「女は〇〇」のような表現にモヤモヤとしていました。そうではない人たちを知っていたからです。
でも、最近はあまりモヤモヤとしなくなりました。
その表現がどんな背景をもって作られたかを想像するようになったからです。
例えば、「日本の高齢者のITスキルが、世界の中でも著しく低い理由」というタイトルがあります。(今日目にとまった記事のタイトルをピックアップしただけです)
こういったタイトルは、失礼ながらインターネットでは批判されることが少なくありません。「わたしは違うんだけど、、、」みたいな反応が出ることもあり得るかと思っています。
でも、一方で「日本の高齢者はITスキルが低い」と言われなければ、その事実に目を向けなかった人、気づけなかった人もいらっしゃるのではないでしょうか。
確かに当てはまらない人にとっては、「自分は違う」「自分のパートナーや友達は違った」と不快感を感じることもあるかもしれません。
でも、すべての表現が、自分にとって心地よくあるわけではないですし、むしろ傷つけるものだからこそ意味があるものになる場合もあると思うのです。(例えば、自分の体重とそれによるリスクがばーっと出されたら傷つくかもしれないけど、対策することで未来の幸せに繋がるかもしれません。)
もちろん、自分にとっての心地よさは大事であり最優先ですが、あくまで最優先でしかないと思うのです。
そしてこの記事では最後に筆者の方の危機意識が書かれています。
『管理職に適した人のみを管理職に登用し、それ以外の人については常に再教育を施す仕組みを構築しなければ、日本は次のIT革命でも乗り遅れてしまうかもしれない。』
想像ではありますが、筆者の方には、何とかこの事実を届けたいという気持ちがあったのではないでしょうか。
同じように、大きい主語を使って話す人の中には、目的をもって、大きい主語を使っている人がきっとたくさんいます。
いくらでも個別具体に話せるけど、表現が冗長になったり、伝えたい人に伝わらなくなる可能性がある。だから、主語を大きめにしたり、各論を扱わずに話す姿勢をとっている人もいるはずです。
他人の感情に期待するのは傲慢なことではありますが、背景を想像したり、調べることは無駄ではないと思います。
参考
こういった考えに至ったきっかけはこの本。具体と抽象について意外と理解できていなかったことがわかりました。
***cotree advent note***
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