自分が何者であるのかが見えない
小さな幸せ
このごろの私と言ったら、朝の通勤途上で、田舎の郊外にある私鉄駅に向かう男の子とその若い母親を、その日その日に見かけるかどうかに、小さな幸せ探しをしているのである。
「あ、いた。可愛いな。今朝は会えた。今日は絶対いい日になる」と頷き、逆に見かけなかった時などは何だか少しだけど悲しくなる。
そうしてこんな光景を毎朝のように見ていると、今の自分の心の持ちようと言ったものが、この親子が見せる僅かな光景に決定されている気がして、本来は目に見えない漠然とした幸福(しあわせ)と言った感情が、目前でリアルな形になって具現させているような感触を得て、何だか嬉しくなってくるのである。
私が歳(とし)を取ったせいなのだろうか。
遠くの町に暮らす私の娘からは、今やすっかり少年の体つきと顔つきになった孫の写真が送られてきて、一方では朽ちてすっかり老爺となった自分の体と心を意識しはじめた、そんな昨今、少しの寂しさが埋め込まれた目線とで、こうして目前に小さな男の児を見ると、それだけで涙がこみ上げるほどの温かい小さな幸せを感じるのである。
図書館にて
先日、私は仕事帰りに久しぶりに市立図書館に寄った。自宅と職場と図書館は市街地図の上では、それぞれがちょうど正三角形の頂点に位置するのだが、自動車通勤なので職場から20分くらいの場所にあるそこに、それほどの気負いもなく若干の寄り道気分で行くことができるのである。またこの図書館から私の自宅へ帰る途上にスタバがあるというのも、カプチーノを片手に、たった今借りてきた本をちょっと広げるという楽しみが増えて、図書館プラスアルファの楽しみをもたらせてくれる所以である。
駐車場に車を置き、図書館の玄関に向かった。
私の前には二人の男の子を連れた若い母親が玄関に入ろうとしてた。この親子が借りていた本を返そうとしているところだったのは、大きなトートバックを肩に掛けていたのですぐわかった。そして4才くらいだろうか、もう抱っこも卒業する頃の男の子が、眠いのか母親に抱きつき腕を首に回してぐずぐずとしている。
すると横では一つ二つ上のお兄ちゃんが、母の腕に下がったトートバックが重そうだったからなのか、下から、それはちょうど御神輿を担ぐように両手を挙げて肩に載せ、それを持ち上げているのである。バックを持ち上げたまま母と歩調を合わせ一緒に返却コーナーまで歩いていく。母親はなにも言わない、つまり、誉めもしないし怒りもしない。下の子を抱いたまま歩いて行く、そんな自然な光景。
私は一瞬でこのお兄ちゃんが気に入ってしまった。心の中で「うん、それでいい、いい子だ、おまえはほんとにいい子だ!」そう励ましながら、泣き虫先生の私は、また目にうっすら涙の幕を張らせてしまっていた。お兄ちゃんも本当はおかあさんに甘えたいのかもしれない。
さて、私が借りた本は2冊。どちらもおどろおどろしい!
「狼煙を見よ(東アジア反日武装戦線狼部隊)」松下竜一
「別冊歴史読本、特攻作戦」
うーーむ!!
眠れない夜
夜になった。その夜も私はなかなか眠れなかった。
夜中になって「ザザザッ」と通り雨。まもなくしてそれが止むと、夜のしじまに冷気が固まりとなって走り抜けていくのが分かった。網戸のままの部屋で、すでに寝床で横になっていた私は、寄せてきた冷気に薄いタオルケットでは少し肌寒くなり、脇によせてあった毛布を重ねてみた。
毛布の端で口を覆うようにして、私は小さい声で、そっとつぶやいた。
「J !おやすみ」と。
もう一度、もう少し大きな声でつぶやいてみる。
「J !おやすみ」と。
そうして町を抜けていった冷たい風の集まりが、私が発したこのかすかなつぶやきを乗せて、不倫と言う名の、秘密の恋人が住む家のあたりまで、そうして彼女の枕元、いや耳元にまで届けてくれているのではないか、というような空想をして、自分ながら少し切なくなってくる。
雨が、ふたたび、降り始めた。今度は雨脚が強く、私は起き上がってガラス戸を閉め再び布団に潜り込んだ。そのぬくっとした温感が、私より一回り以上も若い恋人の、暖かい肌を連想させて、ニヤニヤと含み笑いをしたまでは覚えているが、どうやらいつの間にか私は眠りに落ちてしまったようだ。
(見出し写真は図書館から帰宅する途上にあるスタバと太田翔伍デザインの紙カップ)